走れ、二八番(お題:ランナーズハイ)【阿】
――逃げることと飛ぶことの
区別がつかなくなった午後三時。
真昼の都会の繁華街を
浅野谷は必死で走っていた。
今にも後ろから
パトカーが追いかけてくるかもしれない。
横合いから警官が躍り出てきて
取り押さえられるかもしれない。
しがないサラリーマンの浅野谷にとって
それは現実感の全くない悪夢だった。
普段から営業で外回りをしているとはいえ
その移動のほとんどは車である。
浅野谷は決して日頃から
大地に親しんでいる類の人間ではなかった。
地面を蹴る毎に、全身に慣れない反動が
ダメージとして返ってくる。
肺臓へ送り込む空気の吸引が追い付かない。
頼りない下半身が
上半身の重みに耐えきれず
重心をグラグラと揺らす。
咄嗟の判断でラマーズ法を試みるも
今度は横っ腹に激痛が走り始めた。
汗が止まらない。
頭のてっぺんから汗が下に下に垂れてくる。
もはやこれが冷や汗・脂汗・運動汗の
どれなのか、区別もつかない。
浅野谷は己の運動不足を嘆いた。
そしてこんなことになってしまった
己の浅慮を何よりも厭悪した。
浅野谷にはどうしても金が必要だった。
元カノが癇癪を起こして無茶苦茶にした
家のリフォーム代、約20万円。
突発的な傷心旅行に散財した金
約15万円。
その後ヤケになって入った
キャバクラの会計、25万円。
ただの失恋の傷が、気付けば
どう工面しても返せないほどに
膿んで膨れ上がっていた。
なんであそこで
ドンペリなんて入れてしまったのか。
それは、あのキャバ嬢に
元カノの面影を感じたからよ。
ルルル。男は船。女は港。
ただし、船が港に着くまで
無事かどうかなんてわかんないけどね。
はは。おもろ。
浅野谷は限界だった。
そんなある日
閑寂の耳鳴りがする我が家で一人
浅野谷は求人情報の
フリーペーパーを捲っていた。
何か腹案があったわけではない。
単なる現実逃避である。
浅野谷は、もし自分が広告代理店に勤めず
焼き肉屋の兄ちゃんとして
溌溂と働いていたならば
そもそも二八の男などと謗られる事もなく
こんな事態にも
陥っていなかったのではなかろうか。
そんなパラレルワールドを空想しては
溜息をついていた。
頭の中に黒雲が蠢いていて
今にも降り出しそうだった。
もし降り出してしまえば
その驟雨は瞼から流れ出るだろう。
その時は思いっきり嗚咽してやろう。
号泣して叫び回ってやろう。
そしたら神様も見るに見かねて
俺の元にドラえもんを
送ったりしてくれないかなぁ。
しかし現実的に考えれば
ここで泣き叫んだ場合
訪ねてくるのはタンクトップに
トライバル刺青の角刈りマッチョに違いなく
浅野谷は涙を捨てた。
すると潤んだ瞳にぼやけた
「急募」という文字が浮かんできた。
滲んで見えるその文字は
今まさに世間の荒波に呑まれ、溺れつつある
自らのSOSのようにも感じた。
「簡単なおつかい業務」
「指示通りに動くだけ」
「詳細はDM、又はお電話にて」。
ざっと目を通して浅野谷は呆れた。
呆れ果てた。嘆かわしいことだ。
今時こんなあからさまな詐欺の手口に
引っかかる阿呆がおるのだろうか。
しかしその中に気になる一節を見つけた。
見つけてしまった。「即日5万円~」。
浅野谷はすぐさま電話をかけた。
電話口に出た担当は架田という男だった。
何でも架田は上級国民に対しての
雑務全般を代行するサービス
というのを行っているらしく
今回はそのクライアントから突然
明日の買い物に付き合うよう依頼があり
急なことで人手が足りず
バイトを探していたのだという。
「ホントに買い物に付き合う
だけでいいんですか?」
「ええ。直接クライアント様と
現地で合流してください。
後はクライアント様から
買い物の指示がありますから
それに従ってください。
拘束時間は一時間もないと思います」
「え?一時間で五万円貰えるんですか?」
「上級国民の方々は忙しいご身分ですから。
ただ、買い物の大きさによっては
五万と言わず十万、二十万
という場合もありますよ」
「一時間、買い物に付き合うだけで
そんなに貰えるんですか?」
「はい。上級国民の方々にとっては
金より時間なんです。
我が社のクライアントは
一時間で何百万と
稼ぐような方々ばかりですから」
浅野谷は上級国民の豪快さに嘆息した。
同時にカースト制度並みに
不平等な世の中を憎んだ。
今からでもマルキシズムに走って
ネオ全共闘でも旗揚げしてやろうかしら。
いやそんなことより金だ。
金金金金金。
元気があれば何でもできる。
しかし金がなければ元気もない。
この道を行けばどうなることか。
危ぶむなかれ。危ぶめば銭はなし。
迷わずいけよ。信州には行くな。馬鹿野郎。
浅野谷の心の中に
ボンバイエが響き渡っていた。
🍎アカリ🍎
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