やさしさに追われる午後
――ほんの出来心で触れたぬくもりが
しばらく私を見張っていた。
思えば、あれは川崎という名の町の
春の終わりの午後であった。
陽はまだ高く、けれども私の影は
すでに傾きかけていて
これはもう、何かが終わる徴かもしれぬと
ひとり勝手に哀しくなった。
私は、鳩に触れてしまったのだ。
それは罪なのか、それとも恩寵なのか
私にはいまだに分からぬ。
というのも、私は、鳩などというものは
世の理のようなもので
決して人の手など届かぬところに
いるものと思っていた。
花の咲ききる寸前の蕾のように
微かなる距離と緊張を持って
ただ眺めるだけの存在だった。
河川敷にいる鳩は
ことごとく私を侮っていた。
彼らは私の足音を聴いたとたん
首をひと振りして身を翻し、空へ、草へ
どこへともなく逃げ去るのである。
それが礼儀であり、慎みであり
何より自然の摂理というやつであった。
だが、川崎の鳩は、違っていた。
私は、その鳩に
正面から見据えられたのだ。
いや、むしろ
無視されたと言った方がよい。
駅前の、曇天を吸ったような
灰色のアスファルトの上で
彼らは瞳孔を開いたまま
ただボンヤリとしていた。
まるで、夢も野心もすべて
喰い尽くされた猫のような顔をして。
実家にいた
老いた猫(名をタケミカヅチという)の目に
私は川崎の鳩を見た。
安逸と、無警戒と
そしてちょっぴりの諦念。
すでに何かを喪ってしまった
動物特有のまなざしだった。
餌付けというのは、人の手が
他者の尊厳にじかに触れる行為である。
そして触れられた側も
いつしかそれを望むようになる。
「これは、ひょっとして……。」
私は膝を折り、手を伸ばした。
恐る恐る。
かつて、恋人の頬に触れようとして
それでも触れられなかったあの日のように。
やさしさと後悔とが掌に混ざっていた。
触れた。
羽の柔らかさは
記憶にある絹の肌のようであった。
私は戦慄し、そして笑ってしまった。
だが、鳩は飛ばなかった。逃げなかった。
――そのかわりに、ついてきた。
私は立ち上がり、駅の方へ歩き出した。
改札の前で、ふと振り返ると
あの鳩がいた。
三歩下がって、また一歩近づいて
まるで求婚でもされている
かのような足取りで
私のあとを追ってきていた。
私は、餌など持っていなかった。
ただの、通りすがりの
なんの役にも立たぬ女である。
けれど鳩は、そうとは知らぬ顔で
改札の手前までやって来た。
「…なんだか悪いことをしたなぁ…。」
私は思わず呟いた。
ほんの少し手を伸ばしたばかりに
余計な期待を抱かせてしまった。
ああ、こうして人間はまた一羽
信頼を裏切るのだ。
鳩はしばらくそこに留まり
やがて飽いたように
また別の誰かのあとを追っていった。
私は、その背中に安堵しながらも
妙に胸がつかえた。
町というのは、魂の温度で出来ている。
川崎は、鳩を人に慣れさせ
人を鳩に寛がせた。
だが私は、そのやさしさの深淵を覗き込んで
そっと目を逸らしてしまったのだ。
鳩は、私を許してくれるだろうか。
あるいは、私自身が
私を許す日が来るだろうか。
いや、きっと来るまい。
なぜなら私は、その羽根のぬくもりを
もう一度だけと思いながら、今日もまた
鳩に会いに行ってしまうのだから。
🍎アカリ🍎
ꫛꫀꪝ✧‧˚X
LINE
✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp
ご予約詳細は🈁