猫舌の夏 【下】
ところがある日、驚いた。
テーブルの下で
蝉がけたたましい鳴き声を上げている。
何事かと覗けば、カズチーの後ろ姿。
そして振り返った彼の顔。
なんと悍ましい。
半死半生の蝉を咥えて
ご満悦でいらっしゃる。
するとカズチー、ふっと顎の力を緩めた。
途端に、蝉は命懸けの離脱を試みる。
させぬとばかりにまた咥える。造作もなく。
その動きの俊敏さ、神経の鋭さに
戦慄すら覚える。
そしてカズチーはまた離す。咥る。
離しては咥え、また離す。
キャッチ&リリースならぬ
キャット&ビリーヴ。
この場合のビリーヴは
蝉の生への切なる願いとでも言おうか。
しかし、その祈り虚しく
蝉の体積はみるみるうちに削れていく。
まるで過負荷に圧縮されるように。
小さく小さく。
命の器として機能しない程に
頼りなくなるまで。
そして、もはや残骸たる最後の一欠けら。
それをカズチーは、バリバリと頬張った。
食べた。
蝉は、七日を待たずして、猫の胃に堕ちた。
その時のカズチーの
あの恍惚たるエビス顔。
ひょっとしてこいつ
蝉が一番の好物なんじゃないかしら?
ともすれば、タダより安いものはなし。
急がば廻らず全は急げ。
私は網籠を携えて家を飛び出し
早速
近場の公園の木々を狩って回りました。
ちょうどよく、季節は夏でありました。
成果、大量。四匹、捕獲。
さあカズチー、ご照覧あれ。
これらはお前の大好物。
蝉をカズチーのケージに放ち
彼はそこに躍り込む。
狂喜乱舞の猫じゃらし。
宴に駆られる儚き命。その死神の美しさ。
私は子供特有の残酷さでもって
カズチーの狩りに加担し
蝉の七日を次々終わらせ
夏を早めていきました。
樹の幹を羽根に彫刻し
耳朶を揺らす鋸色の音は
真夏の陽炎の、風のみ残す白影に
覆われる毎に花と散り
落ちた欠片は脂の濃く
渋色滲んだ枯葉が如く
ぽつりぽつりの虫食いは
夏空に空いた穴の様
泡沫の季節滑車を乱し
咲いて乱れて散り乱れる
樹の羽のゼンマイ尽きては落ちて
赤いヤスリに巻き取られ
陽よりも熱き池の中
ひとつひとつと堕ち満たす
仕手の私は征服者、真夏を平らぐ猫の主。
翌日、カズチーはお腹を壊した。
私は母から執拗な尋問を受ける。
「あんた、一体なに食べさしたの!?」
「…蝉」
「なっ…!?」
「カズチーが美味しいっていうから」
「猫が喋るもんかね!」
「お母さんだって喋ってたじゃん!」
「あんた、また屁理屈ばっか言って!」
「先にヨーグルトだの椎茸だの
悪食を拵えたのはお母さんじゃないか!」
「あんたね!蝉なんか食べて
寄生虫でも入ったらどうするつもりなの!」
私の脳裏にゾンビ犬の姿が浮かぶ。
体中から触手が突き出した、恐ろしい犬。
カズチーも、あんな風になるのかしら?
「ノーベル化学賞…」
迂闊に意味不明の呟きをしてしまい
しこたま怒られた。
その晩、お父さんの車に乗って
カズチー、初めての動物病院。
結果、寄生なし。
順調に消化不良とのこと。
ひとまずの安堵&ノーベル化学賞の挫折。
カズチー、その後すっかり懲りたのか
動くものを捕らなくなった。
昔だったら鼠も取らぬ猫などお祓い箱だと
山に捨てられていたことだろう。
それはそれで
元々山のものが山に還るのだから
原点回帰ということになるのだろうか?
しかし
カズチーは山猫ではなく家猫である。
カズチーが黒猫ヤマトだったら
日本中どこでも生きていけたのかなぁ。
家の縁側に寝そべりながら
私は残り少ない夏休みを
下らない哲学に費やして
安寧を貪っていた。
そこへ、カズチーがやってきた。
あの一件以来
随分と狂暴性のなりを潜めた彼が
私の膝元に顔を擦り付け
ゴロゴロと喉を鳴らしている。
私はそんな彼をおもむろに抱え上げると
目線の高さを合わせて
真正面に据え付けた。
「カズチー。
お前の名前はね、私が付けたんだよ。
武御雷。
高天原ってとこにね
天津神っていう日本の神様が沢山いるの。
その中で、最も武に長けた神様なんだよ。
だからね、お前はもっと
武士然としてなくちゃダメなんだよ。
何でもかんでも食べるなんてのは
武士のすることじゃないの。
武士は食わねど高楊枝っていうでしょ?
武士でも、神様でも
食あたりには勝てないんだからね。
お釈迦様だって、腹痛で死んだんだからね。
あと、多分
寄生虫には誰も勝てないんだからね」
今ではカズチーもブクブクに太って
ゴロゴロするだけのお爺ちゃんだ。
隣で丸まっているカズチー。
この実家で、昔、猫相手に
真面目に寄生虫の話を説いたことが
可笑しくも懐かしい。
…この夏、私が今、帰省中なだけに。
お後がよろしいようで。
🍎アカリ🍎
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