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Blog@arabian怒声の向こうの春――冬のような声しか知らなかった人が 涙を流すとき 私はほんの少しだけ春を信じた。 なんだか郷愁に耽ってしまったので 前回に引き続き音響時代の思い出を もう一声、綴ることにする。 その職場には、春が来なかった。 いや、来てはいたのだろう。 だがそれは 石造りの倉庫の裏に咲くスミレのように 誰にも気づかれぬかたちでひっそりと咲いて やがて風に吹かれて散っていく ――そんな類の春であった。 音響という名の、男ばかりの荒れ地。 その中に、私と、もう一人の女の子がいた。 同期だった。 まるで荒波に浮かぶ 二艘の小舟のような存在だった。 帆も舵も持たぬまま ただ嵐をやりすごすために 時には手を取り、時には押し合って 何とか波の上に浮いていた。 最初の頃は酷かった。 どの音も割れて聴こえるような怒号の嵐。 配線ミスどころの話ではない 私自身の存在そのものが 誤接続であるかのように思われた。 それでも、彼女と一緒だったから なんとか耐えた。 彼女の手元から漏れる笑い声や わずかな囁きは、あたかも チューニングの合ったモニター音のように 私の心に小さな平衡をもたらしてくれた。 「お菓子配ろうか」と、彼女が言った。 「話しかけてみようか」と、私が言った。 それは、孤島で狼煙を上げるような 生存戦略だった。 言葉も、微笑みも すべては点滅する信号だった。 ――生きてます、と。 そんなある日、彼女がぽつりと呟いた。 「今度、先輩の誕生日、やってみない?」 言い出しっぺは彼女だったが 私は即座に賛同……できなかった。 その先輩は、普段から 雷鳴のような怒号を響かせる人だった。 仕事に一分の隙も許さず ミスひとつで周囲の空気を凍らせる。 そんな人に、ケーキなど渡してよいものか。 笑われるのではないか。 いや、もっと厄介なことになるのでは。 そんな躊躇が 喉にひっかかったささくれのように しばらく抜けなかった。 けれど彼女は言った。 「そういう人だからこそ 嬉しいと思うんじゃないかな」 ――私は、うなずいた。 たとえ滑稽な結果に終わっても 灯りを灯そうとしたことは 無駄にはならないような気がした。 近くのケーキ屋で チョコレートケーキを予約した。 会社の会議室にロウソクを立て スピーカーに音楽を流し 同じく無愛想な先輩たちを ひとりずつ巻き込んで サプライズの用意をした。 本番、音を鳴らしながら、私たちは歌った。 𝙷𝚊𝚙𝚙𝚢 𝙱𝚒𝚛𝚝𝚑𝚍𝚊𝚢 𝚝𝚘 𝚢𝚘𝚞—— その先輩は、目元を拭いながら笑った。 あんな風に笑う人だったんだ、と思った。 きっと、私たちの知らない 過去や哀しみや苦労が この場のどこかに混じっていたのだろう。 誕生日というのは、祝われる人よりも 祝う側の救いなのかもしれない。 バースデーが、私は好きだ。 それはちょうど よく調律された一音のように 小さく、確かに誰かの胸に響くからだ。 それは派手な演出ではなかった。 誰かの生まれた日を ただ思い出してあげる。 それだけのことが どれほどの慰めになるのかを 私たちはあの日、知った。 そして私は思う。 私が配線できなかったもの。 それは、あの時の涙にこそ 通っていたのではなかったかと。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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Blog@arabian薄暮の陥穽 【下】仕方がない。 私は無礼千万を承知で 1階の塀を蜘蛛男よろしく這い上がり 外の生け垣の隙間に着地すると 人目がないのを確認し なるべく足音を立てず 闇夜に紛れるよう気配を消して 正面玄関へと向かった。 もはや、電話を終えてから 1時間が経とうとしていた。 肩を上下させながら インターフォン前に辿り着いた私は 友人の部屋番号を押した。 …応答がない。 まさか、まだ電話中なのだろうか? そういえば私はこの期に及んで 友人を慮って電話をかけていない。 流石にもう電話も済んでいることだろう。 私はLineの発信ボタンを押した。 「ツウワチュウノタメ オウトウスルコトガデキマセン」 そんな馬鹿な。 いくら仕事の電話といえど 朋友を外へほったらかしにして 1時間以上も澄まし顔で 応対しているような者があってたまるか。 そんなものはもはや友人ではない。 いや、人であるかすら疑わしい。 人界に迷い込んだ悪鬼羅刹だ。 サタンの手下だ。地獄の獄卒だ。 永遠にインフェルノだの ジュデッカだのゲヘナだのの 底へ封じられるべき悪徳の徒だ。 私は何度もインターフォンを鳴らした。 余り長く寒月の下に 身を晒していたものだから 身体がバイブレーションしている。 友人に会いたくて会いたくて震える。 西野カナ化した私の意識が虹の彼方に 飛んで行ってしまう前に 早くこのコキュートスから 連れ出していただきたい。 しかし一行に友人からの応答はない。 おかしい。いくらなんでも不人情が過ぎる。 意図的に人心を弄んでいるとしか思えない。 そこで私はハッとした。 これは、最初から仕組まれた 「GAME」だったのではないか? そういえば友人は、「SAW」を 観終わった直後に「I wanna play GAME」 などと、口真似に思わせて 小声で言っていたではないか。 なんということだ。 だとしたら「GAME」が始まったのは あの携帯が鳴った時… そして私の助かる鍵は、平和ボケせずに きちんと必要な物を身に着けて 万事に備えて外に出たかどうか だったのではないか? 思えば友人は 今に第3次世界大戦が始まるだの どうのこうのと陰謀論に感化されて 熱弁を奮っていたことがあった。 私は友人に 兵士として甲乙丙どの種にあたるかの テストをされていたのではないか? そして愛国心強き友人のことだ 丙種にも不合格な役に立たぬ非国民は このまま打ち捨てて構わぬ という算段なのではないか? 「It's GAME OVER!」 ガチャリと閉まったあの時の 扉に重なった声が、今にして思えば 友人のものだった気がしてきた。 「SAW」の最初の 浴槽のシーンが頭に浮かんだ。 あれは私だ。 目の前にあった財布を取らなかった私は とっくに落第していたのだ。 「It's GAME OVER…」譫言のように そう呟きながら玄関に蹲り 鍵も財布の中、帰る家もなく このまま打ち捨てられる この身を呪いながら 頭の中で「SAW」の エンドロールが流れ始めた。 私もまた エンドロール中に泣きわめくべきだろうか。 憐れな醜態を演じた私を 誰かが助けてくれるだろうか。 「…何してんの?」 寂寞としていた背後から、突如として 天からの詔が如き調べが落ちてきた。 友人が、マンションの自動ドアを 開けて立っていたのである。 半ば宵闇に打ち捨てられた私の位置からは エントランスの光を 背に受けて照らされている友人に まるで後光が差しているかのように見えた。 彼こそは仏陀の化身に違いない。 久遠の別れを唆す残月の光の冷ややかさに 樹幹を抜ける冷風が 暁の近くを告げる哀しさに その曙光に焼かれる覚悟をしていた私に 突如として御仏の霊廟は開かれた。 あんなに重々しく 現世と幽世を隔てていたかに思えた扉が 実に軽やかに、御仏に仕える従者の如く 従順にして大人しく 横に鎮座して佇んでいる。 私はありがたさに目頭から雫を迸らせ 「なんで全然出てくれないのよ!」 と、当たり前に癇癪を起こした。 「いや、あの後、廊下に出てもいないし どこかに買い物にでも行ったのかと 思って待ってたんだよ。」 「財布置いて行ってたでしょうが!」 「そうなの?ああ、多分それ 毛布に隠れて見えなかったんだ。ごめん。」 「でも何度も インターフォン鳴らしたでしょうが!」 「それな。なんかカメラに映ったお前が 細かに動いてるせいで残像しか見えなくて 怖くて開けれなかったんだよ。」 「じゃあ電話は? 通話中で出られないって、どういうこと?」 「ああ、あれは単純に電話が長引いちゃって。 すっかりお前のこと忘れてた。ごめんね。」 サタンは、後光を差して現れ 人を欺くのかもしれない。 我が友人は、御仏か、悪魔か。 いや、これは、ジグソウではないか? 友人は自分の不興を買ってまで 私に財布のかけがえのなさを 教えてくれたのだ。 「SAW」にて、人は命の尊さを忘れていた。 友人宅にて 私は財布の大切さすら忘れていた。 …電話中、友人は、 私の存在をも忘れていた。 私の友人は、やはり、サタンかもしれない。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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