孤独なよろこび
――あの日の三文字に
わたしの誤解と希望と絶望とが
すべて詰まっていた。
人の世に処することは
往々にして滑稽であり
またその滑稽が故に哀しきものに通ずる。
それは、ある晴れた日の午後
私が初めて携帯電話なる
文明の器械を手にした時より
既に始まっていたのかもしれぬ。
人は便利と称して多くの不自由を買い込み
社交と称して無言の監視を招き寄せる。
私が「SNS」という
不可思議なる社会的装置を用い始めたのも
その不自由の道を歩まんとする
第一歩であった。
されどそれは
青年の鬢髪に立つ初霜のごとく
清冽な一撃をもって
私の自尊心を凍てつかせた。
何を書けばよいのか。
初投稿とは、いわば己れの存在を
人の海に浮かべる第一声である。
かのソクラテスがアテナイの市に立って
声を上げたときよりも
今や一層多くの眼が私を注視している。
されば、人は得てして
無難なる文句を撰ぶ。
「よろしくね」「はじめました」
「フォローしてね♡」
世間一般、花の香に似せた言葉をば
こぞって撒き散らしている。
されど、私は斯様な仮面を
どうしても纏うことが出来なかった。
ただ、ぽつりと、こう書き込んだ。
「わーい」
この一語には
深意がなかったわけではない。
否、むしろ愚直なまでに
純真なる悦びが籠もっていた。
古来、歌詠みの道においては
意味よりも調べを重んずる傾きがあり
ましてやこの世の始めにおいては
「うれし」とか「たのし」とか
無意味のようでいて
万象を包摂する言葉が流布していた。
「わーい」こそは、その現代における
野の花のような発語であった。
意味を排し
ただ気分の波を戯れに洩らすのみ。
かかる一言こそ
かえって悠久の詩情を孕んでいる。
などと、我ながら酔うほどに満悦していた。
ところが翌日
学校という人の巣に戻りし時
世界は急に私を迎えねばならぬ
義務を放棄したかのように
冷たき眼をもって私を照らした。
放課後、部室の一隅にて
ある少女が言った。
「…あの書き込み、どうしちゃったの?」
その声は
まるで早春の薄氷を踏んだ時のように
しんと我が耳朶に触れた。
私は、火にでも投げ込まれたかと思うほど
顔が熱くなった。
全身を羞恥の赤が走り
心は瞬く間に瓦解した。
彼女の目には
私が正気を失ったる者として映ったらしい。
実際、社会という舞台において
挨拶や自己紹介をせぬ者は
狂人として記憶される。
私の「わーい」は、無垢の叫びではなかった。
無礼であり、無知であり
なにより、場違いであった。
その晩、私は自らを責めに責めた。
なぜ、「よろしくね」と言えなかったのか。
なぜ、「初めまして」
と手を差し出さなかったのか。
否。
なぜ、自分であろうとしてしまったのか。
そして己が、ひとり遊びを続け過ぎた挙句
他人と交わる術を知らぬまま
心の深き井戸に
閉じ込められていたことを知った。
その井戸の底で
私は小さく呟いたのである。
「わーい」と。
私は、彼女に謝った。
「ごめん…」
彼女は、なぜか
もっと悲しそうな顔で笑った。
「えぇ…なんか、ごめんね!」
人は笑いながら
相手の孤独に気づくことがある。
その笑みは、慈愛ではなく
ある種の恐怖から来ている。
私の「わーい」が
どれほど彼女の感性を戸惑わせ
あるいは、心をざらつかせたか。
かくして、私は知ったのである。
人の世に倣うことの難しさと
倣わぬ者の寂しさとを。
それ以来、私は何かを書くたびに思うのだ。
これは、独り善がりではないか。
これは、またしても「わーい」ではないかと。
されど今では、少しだけ
思いも変わってきた。
あの「わーい」には
あの時の私にしか書けなかった
剥き出しの魂がある。
それが拙く、滑稽であったとしても
滑稽なるを以て人の世に美を見出すならば
あの一言にもまた
一片の詩情があったのではなかろうか。
言葉に意味を持たせすぎるこの世界に
「わーい」とだけ書いたあの日のわたしを
少しだけ、愛しく思うことがある。
いつかまた、勇気が湧いたら
私はもう一度言いたいと思っている。
その時は、もう少し上品な顔をして。
わーい。
🍎アカリ🍎
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