母には、届かぬままで
──そういう制度ですから、
とでも言えば
少しは楽だったのかもしれません。
母の日というものが世にあると知ったのは、
十歳にも満たぬある年の、
皐月の風に撫でられた午後であったか。
商店街の一角に、
仄かに甘い香りを立てる花屋があり、
その前に立てかけられた立看板が、
幼心をぐいと掴んで離さなかった。
「母の日に、愛を込めて」。
愛、などと書かれていた。
なるほど、この国にはどうやら
母に愛を捧げる決まりごとがあるらしい。
私は、愛とは何かを知らぬまま、
ただ、その決まりに従順たらんと欲し、
おそらく世界に満ち満ちる
母たちのうちのひとりであるところの、
我が母にも、何かを贈らねばならぬ、
という強迫観念に似た
使命感を得たのであった。
その頃の私は、毎月五百円という、
貨幣経済の片隅で
辛うじて息をしているような
額の小遣いを拠り所に、
菓子や玩具といった
儚い贅沢を享受していた。
が、その日はちがった。
私は、あろうことか、
その五百円を小さな掌に握りしめ、
花屋の店先に並べられた
カーネーションの束を前に、
しばし身を固くした。
赤い花々は、
まるでこちらを憐れむかのように、
微笑んでいた。
あのときの私は、子供らしい無分別と、
それに相反するような
一種の殉教精神とを一身に背負い、
意を決してそのブーケを、
たったひとつ、購入した。
さらに、菓子を添えた。
母の好む、チョコレート菓子であったか。
いや、今となっては記憶も霞む。
ただ、包装紙の金と銀の取り合わせが、
妙に神々しく見えたのを憶えている。
人は感謝を、こうして物に託すのだと、
幼い私は信じて疑わなかった。
さて、母の反応である。
私は、その夜、
慎ましき儀式を執り行うべく、
リビングの戸口に佇み、
意を決して贈呈した。
「母の日、おめでとう」とでも言ったか。
たどたどしい声音であった。
母はそれを受け取り、
ややの間、黙して見下ろしていた。
やがて、彼女の口から洩れた言葉は
「花なんて、要らないよ」
まさかの、そしてこの世の地軸が
ぐらりと傾いたかと思うような、
無惨な一句であった。
そのときの私は、まさにズッコケた。
心中で。
全身の骨という骨が脱臼するかと思った。
顔の裏にまで赤面が広がったように思えた。
なるほど、
彼女の言わんとすることは分かる。
そう、その花束も、菓子も、
所詮は母から与えられた
小遣いで買われたものであり、
言ってしまえば、
彼女の金を彼女に返したに過ぎぬ。
貧しきマネーロンダリング。
これでは贈与の美徳などどこにも宿らぬ。
それ以来、私は、花を贈ることを、
我が家の掟として封印した。
禁忌である。呪いのように。
代わりに私は、考えた。
食卓に一品多く並べてみたり、
兄姉たちを唆して、皆で財布を出し合い、
鞄などという“役立つ”ものを買ってみたり。
思えばあれもまた、
子供らしい哀しき弁解であった。
母の「要らない」に対する、拙い応答である。
そして今年。
今しがた、
この日記が出る頃には昨日のことである。
私は母の日を一日前倒しにして帰郷した。
なぜ前倒しにしたのかというと、
よりによって我が家の長兄が、
母の為に伊豆へ温泉旅行を
プレゼントしていたというのだ。
5月11日、母、伊豆へ発つ。
負けた。私は兄にまで負けた。
これは私への面当てではないか、
とすら疑った。
「兄より優れた妹などいない」
どこぞの仮面の三男に
銃口を突きつけられた気分である。
しかし、よくよく考えてみると、
母の日に湯治を以て充てるなど、
あんまり大盤振る舞いが過ぎる。
却って俗だ。まるで恩着せがましい。
私は一転して興が削がれた。
我が兄の孝養心を棄却し、
むしろ行き過ぎた贈与に赤面した。
軽蔑さえした。
その点、私の親切は、
私の風評への実利と
縁遠いところにあるのだから、
実に真面目だ。
派手なだけでは駄目なのだ。
やはり、
TPOの趣旨に沿った趣がなくてはいけない。
私は考えに考え、
ついに究極の実用品
「絹のインナー」を選んだ。
着ぬはずがない。着ないわけがない。
着なければ裸ではないか、とまで思った。
そして昨日。母はこう言った。
「インナーなんて、要らないよ」
…私はもう、
次は洗剤を贈ってしまうかもしれない。
消耗品なら文句なかろう。
果てはもはや、
いっそ現金になるやもしれぬ。
思えば、私のプレゼント人生は、
母の「要らない」という言葉との
壮絶な戦いの歴史である。
愛情とは、要するに持久戦である。
どれだけ断られようと、
贈りつづけるしかない。
もはや、これは合法的な嫌がらせである。
母よ。私は来年も、きっと何かを贈ります。
そのときはぜひ、軽くでもいいから
「うれしい」と言ってくれ。
でないと私、今度こそ、本当に洗剤を買う。
3リットルの詰め替えパックだって買う。
私という人間の「愛」は、
いつまで経っても、少々ねじれており、
どこか滑稽である。
🍎アカリ🍎
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