ケラウノス・ピリ
――外国人の横顔ばかり見てたら
自分が透明になるスピードが
上がった気がした。
ふらっと、という言葉を
人生に使う人間でいたいと思っていた。
だから私はその日、ふらっと浅草に行った。
ほんとうに唐突で
何かに呼ばれたとか
何かを思い出したとか
そういうエモい言い訳すらなかった。
ただ、なんか、雷門が見たい。
それだけだった。
雷門は、門というより
都市のまつげみたいだった。
境界のギリギリで、ぎゅっと目を閉じて
人々の往来をまぶたの裏に
溜めているような、そういうかたち。
昔はこんなに、目を開けてたっけ。
今の雷門は、光を受けすぎて
ちょっと疲れて見えた。
そこには人がいた。すごくたくさん。
びっくりするくらい
外国の人ばかりだった。
おでこがきれいに光る人
サングラスがやたら似合う人
ずっと写真撮ってる人。
まるで、世界中の言語がすべて
一時的に漢字の下に
避難してきているようだった。
ああ、もうこれは「雷門」じゃない。
サンダーゲートだ。
漢字の音読みで呼ぶには
ちょっと胸の奥がくすぐったい。
だけど、サンダーゲートって言うと
なんかB級SF映画の舞台”っぽくなって
それもまた、悪くないなと思った。
吉原も、いまや観光客で賑わってるらしい。
異国の人が
かつての艶やかさを追いかけて歩く姿は
ちょっと夢の中みたいだ。
そこだけ色調が違う映像を
私だけが再生しているような
静かな孤独がある。
過去の匂いが、現代の風に混ざるとき
時代はくしゃみをする。
くしゃみの瞬間にだけ
私たちは「いま」を自覚する。
それにしても
インバウンドって筋肉質だな、と思った。
全身で“今ここにいる!”
って宣言してる感じ。
気圧の変化で耳が詰まるように
急激な変化が鼓膜を揺らす。
私はといえば
その波にまったく乗れていなかった。
波の音を聞きながら
なんとなく川崎のことを思い出した。
川崎には、そういう派手さがない。
川崎大師に行ったときなんか
日本人すらほとんどいなかった。
広い境内に、ゆっくりした風が吹いていて
音が少なくて、屋根が重くて
まるで、誰かの夢のなかに
紛れ込んだみたいな静けさがあった。
あそこには、人がいないんじゃない。
「必要以上に居ない」という、安心がある。
混雑しないことが
都市の誠実さになる瞬間があるなんて
思ってもみなかった。
「川崎で有名になるには
人を殺すか、ラッパーになるか」
誰かがそう言ってたのを思い出す。
言葉はちょっと物騒だけど
なんか分かる気がする。
私はラッパーにはなれなかったけど
それでも昔、一度くらいは
ビートに身を預けようとしたことがある。
音が先に走って
自分があとから追いかける感覚。
そのズレに、何度もつまづきながら
リズムに馴染もうとした。
でも、川崎は泳げた。ビート板がなくても。
不器用な背泳ぎでも、溺れそうな横泳ぎでも
なんとなく、ちゃんと前に進んでいた。
川崎の水は、急がない。
変わらないことを
変わらないままでいてくれる
土地のやさしさを
私はそのとき、初めてちゃんと
味わっていたのかもしれない。
浅草を歩いていたはずなのに
気づいたら私は心のなかで
川崎の地面に座っていた。
こういう瞬間があるから、東京は面白い。
心だけが先に別の場所へ向かう
ちょっとしたズレを拾いながら
私はまた、雷門の裏側をゆっくり歩いた。
🍎アカリ🍎
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