ぽちゃん
―― 濡れた靴下の感触が、
人生だった気がする。
わたくしは昔から、
ひとりが好きでございました。
いや、誤解しないでいただきたいのですが、
それは孤独とか寂しさとか、
そういった高尚な陰翳の話ではなく、
ただ単に、他人に合わせるのが億劫だった、
それだけのことなのでございます。
だから遊びといえば、ひとり。
そして乗り物といえば、自転車。
あの銀色に鈍く光る、頼りない二輪車に、
私は異様な情熱を注いでおりました。
はじめて自転車に乗れた日、
あれはもう、神の啓示に近かった。
ペダルが回り、タイヤが地を蹴る。
私は、私の意思で世界を動かしている。
そう思いました。
その日から私は、坂を見ると興奮し、
スピードという名の悪魔に
魅入られるようになったのです。
ブレーキ? 知りません。
あの頃の私は、急坂でさえも、
ハンドルをきゅっと握って、前傾姿勢で、
ただただ己の肉体と重力のあいだに
横たわるスリルに身を任せておりました。
今そんなことをしようものなら、
おそらく警官に呼び止められて、
「自転車小無謀運転者」として、
即座に罰金刑でありましょう。
けれども、あの頃は、それが正義だった。
正義というより、むしろ本能だった。
近所に公園がありました。
そこは、わたくしの“サーキット”でした。
一角には池がありました。
きちんと柵もある、
安全な池でございました。
それでも、わたくしは思ったのです。
「もっと速く。もっと、もっと速く」
愚かでした。
池の周りをぐるぐる、ぐるぐる。
あの青黒い水面を、
白い歯を見せながら回り続ける。
そして、気がついたときには、
わたくしの身体は空を舞い、
次の瞬間には「ぽちゃん」と、
実に可愛らしい音を立てて、
水の中に沈んでいたのです。
情けないとは、このことでした。
ああ、悔しい。
なんとも、みっともない。
浅瀬に立ち尽くし、
泥と水とでべたべたになった体を
引き上げてくれたのは、母でした。
彼女は無言でした。
無言ほど、恐ろしいものはありません。
そのまま、
びしょ濡れのまま家に帰りました。
帰る道すがら、
わたくしは反省しておりました。
いや、反省というよりは、
ただただ濡れた靴下が
気持ち悪かっただけかもしれませんが。
けれども、今になって思うのです。
ああいう、向こう見ずで、無鉄砲で、
バカみたいに一直線だった時期が、
わたくしにも、確かにあったのだなぁと。
どうかしていた。
でも、少しだけ、うらやましい。
🍎アカリ🍎
ꫛꫀꪝ✧‧˚X
公式LINE
✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp
ご予約詳細は🈁