想像が負ける日
――光があると、妄想はだいたい負ける。
だから私は夕方が苦手。
そのビルの前を通るたび
ほんの少しだけ呼吸を止めてしまう。
臭い。
夏場に腐った肉の記憶みたいな臭いだ。
風に混ざると
ふとした瞬間に鼻の奥を襲ってくる。
完全に鼻を塞げる構造の顔が欲しいと
何度も思った。
夜にそこを通るときは
たいていブケファラス
(愛馬のママチャリ)に跨っている。
その日も、私はブケファラスの
ペダルを強く踏みしめていた。
まるで、何かから逃げるふりをすることに
夢中になっているようだ。
こんな私にブケファラスを駆る
資格があるだろうか?
卑しくも愛馬の名前を勝手に拝借した
アレキサンドロス大王に顔向けできないぞ。
偉大なる先王に勝手に恐縮しながら
不徳の儀を懺悔つつも
私は戦慄する心を抑えきれなかった。
もし、あのビルの中に
“肉切りブッチャー”みたいな
猟奇殺人鬼がいたとしたら。
もし、誰かの叫びが壁の奥で
凍りついていたとしたら。
そんな妄想が
想像力の裏路地で勝手に繁殖していく。
ある日の午後
私はそのビルの前でペダルを止めた。
陽が沈みかけているけれど
まだ世界は明るかった。
冷めかけの光がビルの外壁に
斜めに落ちていて
それが建物をほんのり淡い
灰色に染めていた。
少年がいた。
そのビルの壁に向かって
何かを投げていた。
石。
少年は全く無遠慮に次々と
ビルの壁に向かって
投石を繰り返していたのだ。
「殺されちゃうぞ、君!」
眼前に展開する危うい蛮行に驚いた私は
内心でそう叫んだ。
声には出さなかった。出せなかった。
忍び寄る惨劇の気配に屈して
何の警鐘も鳴らせず
ブケファラスに跨ったまま
私はその場に固まって少年を凝視した。
すると、彼は投げるのをやめた。
そして、私を見返した。
視線が交差したまま、ふたりとも動かない。
少年は手の中に石を携えたままだ。
しかし、よく見ると
それはすこし光を含んでいた。
それは、透明な、冷たい塊…氷だった。
その氷を透かしてみる奥に
洗い場と冷蔵庫と、働く人の背中があった。
いつも閉まっている
ビルのシャッターが開いていたのだ。
それは、ただの精肉作業だった。
なんのことはない。
そこにあったのは
取り留めもない日常だった。
なんだ。肉は、あった。
でも人間の、ではなかった。
包丁は、あった。
でもそれは業務用の
鉄の光を持っただけの道具だった。
そこには、加害者も被害者も、いなかった。
私は無意識のうちに
シュレディンガーの猫箱の蓋に触れていた。
開けてみれば、何もいなかった。
猫の毛も、声も、血も
ぜんぶ私の想像のなかにしかなかった。
その日から、私はもう
ブケファラスを飛ばすことをやめた。
ビルの前ではスピードを落とし
風の抵抗に身を委ねた。
世界が戻ってしまった、という感覚が
少しだけ寂しかった。
日常のなかに非日常を
見出すことはできても
それが非日常のまま
保たれることはあまりない。
私の目が、現実を暴き、世界はふたたび
ふつうの顔をして立っていた。
まるで、色のない手が私の肩をとらえて
見慣れた通りに引き戻したような
そういう引力のことを
私たちは「退屈」
と呼んでしまうのかもしれない。
🍎アカリ🍎
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