二八の男(お題:蕎麦と饂飩)【離】
忘我のうちに
私はしばらく人込みを彷徨い歩いていた。
頭に蕎麦が乗った男を見た現地の人々は
戸惑い、皆これを遠巻きに倦厭したが
私はもはや明鏡止水の境地にあった。
泰然自若として憚らなかった。
何故なら一時的に心が死んでいたからだ。
仮死状態にあっては
羞恥も面目も意味をなさないものなのだな。
私はある種の
良くない悟りを開いた気分だった。
しかし、意識が息を吹き返しては
動揺して頓死してしまうかもしれない。
危うく思った私は、途中にあった手洗いで
体に纏わりつく胡乱なものを
急ぎ洗い落とした。
すると何ともいえない寂寥感が襲ってきた。
人込みの中にいて
まるで一人荒野を歩いているようだった。
女に出て行かれ
ヤタケタで信州くんだりまで来て
蕎麦屋に入って、尚も私は孤独だった。
何一つ満たされなかった。
私は十割の男になるためにここへ来た。
ところがどうだろう
今の私は二分五厘くらいに
小さくなっている気がする。
これなら東京で二八蕎麦男だった方が
まだマシだった。
帰ろう。我が家へ。
白塵の支配する1LDKへ。
嗚呼、やだなぁ。めんどくさいなぁ。
ハウスクリーニング頼もうかなぁ。
いやでもタクシー代がなぁ。
纏まらない思考で駅へ向かっていると
黒塗りの看板が光って見えた。
「きよみず」という金文字が
その中に細く舞っている。
さっきの店とは真逆の風貌。
その佇まいに、静かな誇りを感じた私は
此処を最期と立ち寄ってみることにした。
「きよみず」という店名からして
自分にはお誂え向きだ。
ちょうど今、そんなところから
飛び降りたい気分なのだから。
相変わらずヤタケタな気分には
変わりなかったがしかし、意に反して
店内は趣深い内装で居心地がよかった。
店自体が温度を持っているような
暖かで静かな木の香りのする店。
広さは先程の店より少し広く
四人掛けのテーブルが六つに
カウンター席が八つ。
お客は既に十人以上入っている。
中々繁盛してるじゃないか。
手入れの行き届いた
木製のテーブルに腰を掛けると
「いらっしゃいませ」
凛と澄み切った良く通る声で
女店員が一人駆け寄ってきた。
また女か!と身構えたのも束の間
私は一瞬にして意を翻した。
その女のあまりの美貌に
目を奪われたからである。
派手なタイプではないが
朝ドラ女優のような正統派の美人であった。
艶のある黒髪を肩口あたりで整えている様が
健康的な快活さを伺わせる。
さっきの店の女と同じ人種とは思えない。
向こうが出っ歯の義経なら
こちらは牛若丸だ。
そういえば牛若丸の本当のモデルは
頼朝だと聞いたことがある。
なるほど九郎判官と鎌倉殿では
勝負は決している。
ならば今度こそ
本物の蕎麦が食えるのではないか。
と、思ったがメニューに蕎麦がない。
なんということか。
外観からはわからなかったが
此処は饂飩屋であった。
しかし、考えようによっては
これは僥倖ではないか。
今思えば私は、女に報復されたことに
端を発して蕎麦に拘泥し
いつの間にか意趣返しの念に囚われ
蕎麦の世界に
閉じ込められていたんじゃないか。
その結果、蕎麦に嬲られ、嘲られ
ボロボロになってこの饂飩屋に辿り着いた。
これはお導きだ。神の声が聞こえる。
「男ならば、太く短く生きよ」と。
細く長く生きるなど、男の道ではないのだ。
私の誠は、饂飩の先にしかないのだ。
嗚呼、やっと道の開ける時がきた。
否が応にも高鳴る期待に呼応するかの如く
鎌倉殿の饗応は心地良いものであった。
ただの水でさえ
鎌倉殿が運んでくるとそれは
アムリタの聖水の如き甘露に感じられた。
そしてついに饂飩がきた。
誂えたのはおろし饂飩である。
何故またおろし饂飩なのか。
これには密かな打算・腹案があった。
考えてみれば、あのような因業な店でさえ
おろし蕎麦の味は確かだったのである。
いわんやこの店のおろし饂飩の味たるや
蕎麦と饂飩の垣根など遥かに超えて
耶蘇や釈迦でも口にしたことのない
神懸りな絶品に違いない。
私は内心で勝利を確信しながら
割り箸を丁寧に割り
この先の有望なる前途を祝して
丁寧に饂飩と薬味と大根おろしを
つゆの中で混ぜ合わせ
そしてゆっくりとした所作でこれを啜った。
地獄のような味がした。
絶望を雑巾絞りしたようなつゆは
独特の臭味をもってどこまでもしつこく
麺は太すぎてもはや
マカロニのようなというか
祟り神のニョロニョロみたいというか
果たしてこれ食物として機能しているのか
脳髄が錯乱状態にある上に
蜘蛛の糸に群がる亡者の苦しみを
煮詰めたような薬味と
神が山中鹿介に与えるはずだった七難八苦を
山盛りに削ったような大根おろしは
もはやこれのどこに原材料の味が
残っているのかわけがわからない。
全体的に、これならシュールストレミングと
ブルーチーズの佃煮の方が
全然イケるんじゃないかという有様で
私は昏倒して意識を涅槃に飛ばさないよう
丹田に力を籠め、尻の穴を絞めて
脂汗を流しながらこの食事という名目の
責め苦に耐えていた。
「お勘定!」
私は堪え切れず悲嘆して
千円札を机に叩きつけ
疾風の如く店の外へ遁走した。
何故そんなことをしたのか?
涙だ。
あまりの苦渋に涙が溢れ
止められなかったのだ。
しかし、男の涙を
容易く余人に見せては人生の行き止まり。
結果、私は食半ばにして
己が感情に行動を支配され
戦を投げ出してしまった。
負けた。私は負けた。
きっとあの女
黄泉の国であれを拵えたに違いない。
何のために?
私の味覚を破壊するためにだ。
思えば義仲を討った義経は
頼朝の命によってこれを行ったのだ。
私はとんだ思い違いをしていた。
私が木曽義仲であるならば
鎌倉殿が味方のわけがないじゃないか。
結果、私は敗北した。
やはり史実は変えられないのか。
木曽義仲は源氏に滅ぼされる運命から
逃れられないのか。
そして私は同じようなことを
前にも言っていたような気がする。
脳髄が痺れてもうそれもよくわからない。
わからない。
私にはもう何が誠で
何が嘘なのかわからない。
体を引きづるようにして東京に戻った私は
自宅近くで二八蕎麦を食べた。
なんだかとてもホッとした。
人生、本音二割で生きていこうと
そう思った。
🍎アカリ🍎
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