私は日本語で答へたのです
――それでも尚、あの青年の目には
私の言葉は文字化けしてゐたらしい。
薬局というものは、此の俗世の縮図である。
ティッシュ、目薬、歯間ブラシに湿布薬
ありとあらゆる小宇宙の集積が
無造作に棚に収まってゐる。
人が求めし癒しと、或いは虚栄とが
きちんと値札を与へられて
陳列されてゐるのだ。
我は其処へ
買ひ出しの名のもとに参詣したのであった。
レジ前に並びし時、空気は微かに波打ち
何とはなしに不穏の風が立ち上る。
行列の足取り、遅々として進まず。
これ、何事ぞ。
我が後ろに並ぶ人々も
鴉の群れの如く沈黙しつつ
ただ一様にスマートフォンに
目を落としてゐる。
やがて、順番至りぬ。
我、漸くにして会計台の前に立てり。
そこに居並みしは、一人の青年。
「実習生」と染め抜かれた名札が
襟元に青白く光ってゐた。
なるほど、斯様なるか。
遅きもまた道理なり。
思へば、社会といふ猛獣の胃袋に
今まさに呑まれんとする若人の
その初陣ぞ。
我は心中にて、無責任なる激励を送る。
がんばれよ、青年。
人間、慣れればみな機械と化すものだ。
商品カゴを卓上に据ゑし、その瞬間である。
未だ底が机と邂逅せぬ刹那
彼は言ひ放った。
「袋、いりますか?」
早い。早すぎる。
心の準備といふものがある。
まるで恋人との別れ話を
食前に持ち出されるやうな唐突さである。
我は内心の狼狽を隠しつつ
鞄の空きを確かめるべく、手を突っ込む。
すると再び、彼の声が空間を断ち切った。
「バッグ?」
その声は、憐れみを含んでゐた。
いや、いや違ふ、あれは…確信だ。
我が鞄に手を突っ込む所作を
彼は解釈したのだ。
「ああ、この人は日本語が通じぬ
異邦人なのだ」と。
…ああ、何といふ誤解。
我は道端の桜並木を嗜み
納豆の粘つきをこよなく愛し
煮干しの出汁で涙する
純正なる日本製女子であるのに。
しかし此の青年には
我が外見が、異邦の者に映じたのだ。
顔つきか? 服装か?
それとも、ただの雰囲気か。
我、己が何を以て
異邦人と断ぜられたのかに思いを巡らすが
答へは来たらず。
「いや、要らないです」
口は確かにそう動いた。
滑らかに、明瞭に、正しき日本語にて。
だが、我が声は儚くも小鳥の囀りの如く
空気に紛れ、彼の鼓膜には届かなかった。
青年は尚も袋を差し出す。
我はその手から逃れる術なく
望まずして袋を受け取る。
そして、我は外国人として
袋を一枚、買ったのであった。
続く会話は、滑稽の極みである。
「キャッシュorカード?」
もはや彼の語り口には疑問すら無く
我が祖国語は葬られた。
我は怒りに似た昂ぶりを抑へつつ
今度こそ届かせんと、叫ばんばかりに——
「現金で!」
声が出た。
思ったより大きく、思ったより鋭く
思ったより日本人離れした音量で。
青年は瞳を大きく開き
まるで禅問答の答を
目撃したかのやうな表情をした。
突如として発せられた強き音。
彼の脳裏には
「異邦人突然発狂」
「店内緊急対応マニュアル」
「信義礼智」等
百八の言葉が渦巻いてゐたであらう。
その不安気な様子に気づいたのか
ベテラン店員たちが一人、また一人と
背後に現れ、青年を取り囲む。
彼の頭上にはもはや
「見守り」「指導」「支援」の名の下
無言の圧力が降り注いでゐた。
隣のレジでは、列が長蛇となりて
怒号すら飛び始めてゐたが、此処はもはや
一人の青年の魂の試練場であった。
人を育てるとは、難しきことかな。
「All for one」は美しき理想なれど
過ぎれば溺愛、甘やかし
或いは他者の機会を奪ふ枷ともなる。
ライオンの親が子を
千尋の谷に突き落とす例え
我は初めて真に理解せし気がした。
さて、我は店を出た。
袋の中に詰まれたティッシュは
ことのほか軽く
ふわりとした手触りに一抹の慰めを覚えた。
ああ、されどこの手に残る袋の重さは
我が誇りと誤解と小さな声が織りなした
哀しき戦の残滓であった。
🍎アカリ🍎
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