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Blog@arabian実家に帰らせていただきます――そう呟いたのは、私ではない。 ブケファラスだった。だなんて 誰に言えば信じてくれるだろうか。 私は日々、我が忠実なる愛馬 ブケファラスに跨がることを常としている。 愛馬といっても ギリシア神話のそれではない。 さりとて実馬にあらず。 現代の冴えない町角を疾走する 少々くたびれた自転車のことである。 だが、私にとってそれは アレクサンドロス大王の如く この世を征服する夢の残響だった。 空気を裂き、風を馳せる その黒き車輪の勇姿に、私は密かに 己の矮小なプライドを託していたのだ。 されど人は忘却の生きものよ。 私は度々、この忠実なる従者を駅前に あるいは薬局の軒先に ぽつねんと置き去りにして 帰宅してしまうのである。 まるで戦に敗れて野に倒れた兵を 勝鬨の喧騒の中に置き捨ててくるがごとく 無情にもブケファラスを忘れるのだ。 もしかしたら、いや、恐らくは 私は自分自身の「どうでもよさ」 に甘んじていたのだと思う。 そして先日 ついに、その所在が、完全に、朧になった。 私は目を剥いた。 どこを探してもいない。 あの頑丈なサドルの質感も 幾度も滑り落ちたグリップの あの微妙な手触りも もはや夢のかたちに崩れていた。 スタバのベンティをぶちまけられても ブレーキのワイヤーが切れかけても ひたむきに私の帰りを 待ち続けていたあの子が もう、いない。 まさかとは思った。 いや、きっと、これは家出なのだ。 堪忍袋の緒が、とうとう切れたのだ。 ブケファラスの、哀しみに濡れた沈黙が 今ごろどこかの公園のベンチ脇で 空を見上げている。 そう思うと 私はひどく罪深く、ひどく哀れだった。 捜索の旅に出た。 コンビニ。スーパー。駅。薬局。 まるで失くした指輪を求めて 森を彷徨う妖精のように、私は歩いた。 心の中で静かに歌が流れる。 ~こんなとこにいるはずもないのに~♪ …私の中のリトル山崎まさよしが 喋り過ぎたMCのツケを払い戻しながら 小さく小さく縮んでいった。 いない。いないじゃないか。 どこへ行った、ブケファラス。 私のすべてを乗せて走った、あの黒き骸が。 ……あった。 電気量販店の前である。 そうだ、私はここで ブケファラスを買ったのだった。 このビルの4Fのフロアで 私たちは出会った。 その思い出の丘の麓に あの子は静かに佇んでいた。 再会の瞬間、私は呆然と立ち尽くし まるで母の胎内へ 還ったかのような温もりに、身をまかせた。 ――「実家に帰らせていただきます」 無言の意思表示だったのかもしれない。 私は泣いた。 ブケファラス、ごめんよ。 これからは、もう二度と置き去りにしない。 君の気持ちに応えるよ。 寄りを戻そう、今度こそ、まことに。 ――翌日、私は再び、ブケファラスを 河川敷に乗り捨てて帰ってしまった。 太陽が、あまりにも眩しかったのだ。 空から降る光線が まるで神の鉄槌のごとく私の目を潰し 視界を奪った。 私は己の忘却を悔いながら それでもなお、「仕方ない」と呟いた。 仕方がないのだ。 人は忘れる生き物だから。 ねえ、ブケファラス。許しておくれ。 また、迎えに行くから。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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Blog@arabianやさしさに追われる午後――ほんの出来心で触れたぬくもりが しばらく私を見張っていた。 思えば、あれは川崎という名の町の 春の終わりの午後であった。 陽はまだ高く、けれども私の影は すでに傾きかけていて これはもう、何かが終わる徴かもしれぬと ひとり勝手に哀しくなった。 私は、鳩に触れてしまったのだ。 それは罪なのか、それとも恩寵なのか 私にはいまだに分からぬ。 というのも、私は、鳩などというものは 世の理のようなもので 決して人の手など届かぬところに いるものと思っていた。 花の咲ききる寸前の蕾のように 微かなる距離と緊張を持って ただ眺めるだけの存在だった。 河川敷にいる鳩は ことごとく私を侮っていた。 彼らは私の足音を聴いたとたん 首をひと振りして身を翻し、空へ、草へ どこへともなく逃げ去るのである。 それが礼儀であり、慎みであり 何より自然の摂理というやつであった。 だが、川崎の鳩は、違っていた。 私は、その鳩に 正面から見据えられたのだ。 いや、むしろ 無視されたと言った方がよい。 駅前の、曇天を吸ったような 灰色のアスファルトの上で 彼らは瞳孔を開いたまま ただボンヤリとしていた。 まるで、夢も野心もすべて 喰い尽くされた猫のような顔をして。 実家にいた 老いた猫(名をタケミカヅチという)の目に 私は川崎の鳩を見た。 安逸と、無警戒と そしてちょっぴりの諦念。 すでに何かを喪ってしまった 動物特有のまなざしだった。 餌付けというのは、人の手が 他者の尊厳にじかに触れる行為である。 そして触れられた側も いつしかそれを望むようになる。 「これは、ひょっとして……。」 私は膝を折り、手を伸ばした。 恐る恐る。 かつて、恋人の頬に触れようとして それでも触れられなかったあの日のように。 やさしさと後悔とが掌に混ざっていた。 触れた。 羽の柔らかさは 記憶にある絹の肌のようであった。 私は戦慄し、そして笑ってしまった。 だが、鳩は飛ばなかった。逃げなかった。 ――そのかわりに、ついてきた。 私は立ち上がり、駅の方へ歩き出した。 改札の前で、ふと振り返ると あの鳩がいた。 三歩下がって、また一歩近づいて まるで求婚でもされている かのような足取りで 私のあとを追ってきていた。 私は、餌など持っていなかった。 ただの、通りすがりの なんの役にも立たぬ女である。 けれど鳩は、そうとは知らぬ顔で 改札の手前までやって来た。 「…なんだか悪いことをしたなぁ…。」 私は思わず呟いた。 ほんの少し手を伸ばしたばかりに 余計な期待を抱かせてしまった。 ああ、こうして人間はまた一羽 信頼を裏切るのだ。 鳩はしばらくそこに留まり やがて飽いたように また別の誰かのあとを追っていった。 私は、その背中に安堵しながらも 妙に胸がつかえた。 町というのは、魂の温度で出来ている。 川崎は、鳩を人に慣れさせ 人を鳩に寛がせた。 だが私は、そのやさしさの深淵を覗き込んで そっと目を逸らしてしまったのだ。 鳩は、私を許してくれるだろうか。 あるいは、私自身が 私を許す日が来るだろうか。 いや、きっと来るまい。 なぜなら私は、その羽根のぬくもりを もう一度だけと思いながら、今日もまた 鳩に会いに行ってしまうのだから。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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