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Blog@arabian
手のひらの芳一――文字で埋めたこの掌が 誰の手も握れなかったのは 当然だったのかもしれない。 あの頃の私は 何かに取り憑かれていたように 「リーダー」を名乗った。 いや、名乗ったというより 誰も引き受けぬ役回りを さも気高き奉仕者のように拾い上げたのだ。 音響の専門学校。 白々と蛍光灯の灯る実習室で マイク、スピーカー、ミキサー、アンプ。 そこに絡みつくケーブルの群れは まるで意思を持つ生物のように 私の足元に絡みつき、転ばせ、嘲り そして試した。 音が出ない。マイクは叫ぶようにハウる。 スピーカーは沈黙を守り 先生の眉間はただ険しくなるばかりだった。 「お前、一人で何をそんなに 忙しげにしてるんだ。 友達、いないのか?」 その一言が、槍のように私の心を貫いた。 そう、私は一人だった。 独りで、何もかもやろうとしていた。 いや、やれると思っていた。 その思い上がりが、今にして思えば滑稽だ。 ミキサー卓の前に立つ私の両手は メモで埋め尽くされていた。 手の甲も、平も、腕に至るまで 黒いインクの走り書き。 あれではまるで、芳一であった。 耳などとうに捨てて 眼と指先だけで全てを制しようとした 哀れなる幻術師。 だが、耳を塞ぎ、口を噤んだままでは 音など掴めるわけがない。 先生の声は、いつも叱責であり 私の失策の数だけ、私の心の地図に 赤鉛筆のバツ印が増えていった。 チームというものがあった。 名ばかりの「リーダー」であった私は ただ己が失地を取り戻すためだけに動き 仲間の存在を 風景のように見過ごしていた。 しかし、本来、チームとは 孤独を埋めるための方便ではないのだ。 それは信頼という 見えぬ糸で結ばれる網である。 誰かと会話をすること。 そんな些細なことさえ 私には勇気が要った。 閉じこもった部屋の壁紙のように 私は自分の無力を貼りつけていた。 終わりは唐突で、そして空虚だった。 実習の最後に残されたのは 不完全燃焼という言葉だけ。 燃えきれぬ火は 煙となって私の胸をくすぶらせた。 驕りは罪である。 私は、私の独善的な美学を恥じた。 手に負えぬ火を抱えて走り回った 滑稽なピエロ。 その滑稽さが今なお 音もなく心のどこかを鳴らしている。 もっと話せばよかったのだ。 もっと頼ればよかったのだ。 もっと、耳を澄まし 目を合わせればよかったのだ。 それは些細なことだった。 だが、音を扱うということは 他者の音を聴くということに 他ならなかった。 あのときの私に言いたい。 「音を出す前に、誰かの声を聞け。 大丈夫。私は私を笑ったりしない。」 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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Blog@arabian
ごめんねぇ――誰にともなく謝りながら 私は今日も、誰にも気づかれずにいた。 電車の中で、音楽が鳴っていた。 それは、駅のホームに流れる 軽薄なジングルとも 車内の無機質な案内音とも まったく異なる質感の ――少しばかり渋めの洋楽だった。 男のしゃがれた声が どこか煤けた路地裏で 口ずさまれているような そんな音楽が、満員というには やや物足りぬ混雑の中に ずうっと、しみついていた。 だが、誰一人として それを聞いていないふりをしていた。 イヤホンをして スマートフォンに視線を落とし 日々のやるせなさに蓋をする術に もうみんな手慣れているのだった。 そう、そうなのだ。 私もまた、そうであった。聞こえてはいた。 だが、それを「聞いてしまってはならぬ」 と思った。なぜだろう。 私は気になって 気になって仕方がなかった。 神経質な性分ゆえか あるいは社会不適応の片鱗か こういう「見て見ぬふり」という行為が ひどく恐ろしく思えるのである。 人間は、もっと素直に、互いに注意し合い 助け合って生きていけぬものか。 いや、そんな理想論をぶつけたところで 誰も私の言葉には耳を傾けまい。 私のような女の言葉など 所詮、駅のホームに 置き去りにされた傘のように 忘れられるだけだ。だから私は黙っていた。 黙って、音の出どころを目で探していた。 車内は、そこそこ混んでいた。 中高年のサラリーマンが 吊革につかまりながら 口を真一文字に結んでいる。 学生らしき若者が、スマホに目を落として しきりに画面をスワイプしている。 誰一人、異変に顔をしかめる者はいない。 ただ私だけが、音の正体を見極めようと 視線を泳がせていた。 だが、見つからない。 まるで音だけが、車内の空気に 溶け込んでしまったかのようだった。 これが「不自由」なのだろうか。 見て見ぬふりという小さな嘘の積み重ねが やがて一つの檻となり 人々の心を縛りつけていく。 私はそんなことを思った。 思ってしまったのだった。 声をかけるか。 だが、もし相手が妙な人間であれば? 絡まれでもしたら? 挙句、私は仕事に遅れてしまう。 私のような取るに足らぬ人間の一分一秒は 決して軽んじてはならぬほどに すでに薄っぺらで、貴重なのだ。 そのときだった。音が、ぴたりと止んだ。 「は?」と思った。え、いま、止まった? 誰が? どこで? 私は半ば呪われたかのように 車内を見渡した。 すると、ひとりの外国人が まるで朝の夢から醒めるように のろのろと立ち上がった。 背は高く、顔立ちは憂いを帯び 肩からぶら下げた リュックサックの口が開いていた。 「〇〇ステーション?」と その外国人が、眠そうな顔で言った。 「ノーノー、過ぎたよ~」と、近くの日本人が たどたどしい口調で応じた。 ――なんてことだ。目覚まし、だったのか。 私はあっけにとられた。全身の力が抜けた。 全ては、あの外国人の スマートフォンのアラームだった。 音楽に設定された目覚ましが 車内で鳴り響いていたのだ。 インフルエンサーによる 奇怪な電車ジャックでもなかったし 深淵から聞こえる亡霊の声でもなかった。 なんのことはない、寝過ごしかけた外国人の ささやかな「朝」だったのだ。 外国人は、誰にも謝らず 誰にも気づかれぬように ゆっくり、電車を降りていった。 とぼとぼと どこか遠い国へ帰るような背中だった。 私は、声をかければよかったと 少しだけ悔やんだ。 「ごめんねぇ」と、誰かが小さく言った。 たぶん、私の心の中の誰かだった。 もしくは、もう一人の私かもしれない。 電車はまた 何事もなかったかのように、動き出した。 私たちは、今日もまた 見て見ぬふりの中にいる。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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