蒼ざめた正義・上
――仮病は罪だ。
だが、私は
正しく痛んでいたのだと信じたかった。
「病は気から」とはよく言うものの
ともすればこれは
神道より先に日本で最も古くから
信仰されている民族宗教である。
私は密かにこの宗教を信仰している。
この教義には、言葉の音が含む意味合い
以上の効力があるとすら感じている。
まことしやかに昔から語られる
この概念の宗教体験を
私はだいぶ幼きより得ていたのだ。
学校時代のことである。
校内の娑婆っ気の中に
思春期独特の孤独感を感じた私は
深窓の令嬢よろしく
綾波レイぶって文庫本を読んでいた。
「何読んでるの?」
「え?…ドフトエフスキー。」
「すごい難しそうなの読むんだね!」私は、それを称賛の声と見立て
得意げな笑みを浮かべて応じた。
しかし、その顔の裏面は赤く曇っていた。
素直に「ターミネーター2」と言えなかった。
そもそも1を読んでいないのに
2を買ったことを後悔していた。
何より、安いプライドを守るために
あんなにも簡単に朋友を欺いた
自分を軽蔑した。
私は卑劣だ。
名誉のためならタケミカヅチ(飼い猫)を
血統書付きだと豪語してしまう
やもしれぬ悪女だ。
草っぱらから拾われてきたタケミカヅチの
野良猫特有にふてぶてしい面が
脳裏を過った。
パラパラと、頁を捲る度に少しづつ
紙の鋭さに思いがけず
指に赤い線が走るような懸念が
自分への辟易と共に募っていった。
私は、嫌になって来た。
学校に居たくなくなった。
そうすると、気持ち悪い気がしてきた。
同時に、狡猾な企みが
腹の中に湧き上がって来た。
「このまま気持ち悪いが
極端の端を越えたら
早退できるんじゃないかしら。」
そうしてお腹にどす黒いものを抱えていると
不思議なもので
本当にお腹の調子が悪くなってきた。
嗚呼、これはきっと天罰だ。
卑劣の上に狡猾を重ねて
不義理をバンズしたせいに違いない。
私の悪辣を見兼ねた
天津神に国津神に耶蘇の神が
こぞって私の罪に
相応の罰を与えようとしている。
景色が、滲んできた。
黒板と白壁の境界が曖昧になって
溶け合って、教室を淡い緑色の渦に
緩やかに捩じりながら
間取りを何尺も伸び縮みさせているようだ。
いつの間にか透明な線が
私の目頭から出発して
頬から顎のラインを
会釈もなく際立たせていた。
「だいじょうぶか?」
必要以上の保湿効果に
前後不覚になっている私の眼球を慮ってか
先生が声を掛けてきた。
「…ちょっと…お腹が…」
「あんまり無理なようなら
早退するか?」「はい。」
しまった。
最期の返事が先生の問いに
被せるくらい早くなってしまった。
ここへ来て「功を焦って墓穴を掘る」という
私生来の性質が先生に影響してしまっては
あまりに甲斐がない。
「わかった。じゃあ親御さんに連絡して
お迎えを頼むから
それまで我慢できるか?」「はい。」
杞憂であった。
先生は私の企みに気づいていない。
大人を出し抜いた心持ちに気をよくして
返事はさらに被せ気味になっていたが
一度看過された失策が
二度目に咎められることはなかった。
こうなると、もはや被せ気味に
返事をすることが
正解のような気さえしてきた。
「次の体育は参加しなくていいから
このまま教室で待っていなさい。
いいね。「はい。」」
職員室から帰って来た
先生の口から通達が出るや否や
私の返事は勢いを増して
自分の手番から飛び出し
最終的に先生の言葉尻と同時に発せられて
和音を奏でていた。
「じゃあ、お母様が一時間くらいで
お迎えに上がるそうだから。
それまで我慢「はい。」できるね?「はい。」」
騎虎の勢い止まらぬ私の返事は
返事を越えて先生の言葉を遮り
その先を急かす抗議の声の如く
成り果てていた。
まずい。調子が止まらぬ。
これは流石に態度を
叱責されても仕方ないぞ。
私は一転して心中恐縮の意を起こし
先生の次の句を暗に待ち構えた。
何かまずいものが出れば即謝罪しようと
緊張していた私の心配を余所に
先生は私を責めなかった。
どうやら私がそれほどまでに
腹痛に苦しんでいるのだと
嬉しい誤解をしてくれたらしい。
見れば先生のいつも毅然とあるはず面持ちに
珍しく憐れみの色さえ浮かんでいる。
なんだか自分がとんでもない
悪党のように感ぜられて
企みの成就と相反する
申し訳なさが浮かんで来た。
でもそれを目の前の先生に懺悔するほど
殊勝な子供でもなかった私は
とりあえずの煩悶を「申し訳ないねぇ。」
という心の声で済ませておいた。
🍎アカリ🍎
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