「愛は茶色く古びて」〜幸福の匂い〜⑫
「それからこの子が
フレンチ・ブルドッグの
コロスケくんです」
トレーナーさんがそう言うや否や
真っ黒な筋肉の塊が
私に向かって突進してきた。
毛の薄い、筋肉そのものの感触が
容赦なく私の全身にぶつかり
打擲を繰り返す。
「うわわわわわわ!」
「おー!コロスケくん凄い筋肉!
おいでおいでぇ」
クロ子はコロスケを自ら抱えようとすると
コロスケはこれに狂喜乱舞。
全体重をクロ子に預けて甘えにかかった。
「うはぁ!すんごいね君。
人間じゃかなわないよ、この筋肉は」
クロ子にじゃれついて舐め回すコロスケを
クロ子はわしゃわしゃしながら抱き上げた。
傍から見れば狂気の沙汰であるが
全身ミリタリーファッションに
タクティカルブーツで固めたクロ子には
妙にその様が似合っていた。
コロスケはそんなクロ子に
すっかり懐いたのか
しばらくクロ子に付きっ切りであった。
が、ついに彼は見つけてしまった。
己の眼下で明らかに怯える
小さくモフモフした二人を。
呂布&ベスである。
彼らは本能的にコロスケを
脅威と見做したのか
すっかり場慣れして
恬然としているマルちゃんの影に
隠れるようにしていた。
突如としてコロスケが
二人に向かって突進する。
あれは最早
コロスケなんて可愛い名前ではない。
殺助だ。
「あわわわわ!あれ!
大丈夫なんですか?
トレーナーさんッ…!」
「大丈夫ですよー。
みんなこの時間は
仲良く運動してるんです。
加減のわかる子たちですから」
「そうだよアカリ。
それに犬の世界は弱肉強食だよ。
呂布!ビビッてないでかましてやれ!」
クロ子がそういうと呂布は果敢に前に出て
二足歩行で前足をばたつかせた。
しかしそれを『遊び』
と解釈したコロスケは
尚も呂布に向かって踏み込む。
そのあまりの圧に
呂布はそのまま後ろに倒れ
ローリングしながら壁まで突き当り
その場に臥せた。
「あはははは!
呂布、それじゃあ
あんたがコロスケじゃん。
コロコローって転がっちゃって」
「クロ子!呂布が危ないじゃない!」
「大丈夫ですよー。このくらいの運動が
この子たちにはちょうどいいんです」
トレーナーさんが割り込む。
「そうだよアカリ。
強者の特権を認めないと
行きつく先は全体主義
果ては共産主義だよ?
アカリはベスが中国やロシアの
独裁政権に組み込まれてもいいのかい?」
よくわからないことを宣うクロ子の
しかしその言葉の断片に私はハッとした。
ベスを守らねば。
「ベス!ベス大丈夫?
…あれ?ベスどこ?」
「とっくにクレートに帰ってるよ」
なんということか。
ベスは呂布を捨て駒にして
己だけクレートという
安全地帯に避難していた。
この子は、こういうところだけ
頭が回るのだ。
犬は飼い主に似るというが…否。
私は断じてあそこまで
権謀術数に長けていない。
人を出し抜くより
出し抜かれることこそが私の才能だ。
そう己で己に宣言すると
心に少し穴が空いた気がして。
そこからの隙間風が、少し、肌寒かった。
それからもトレーナーは
様々な犬を運動場に連れてきた。
発狂気味の
トイ・プードルのアンリちゃん。
攻撃的なマルチーズのルーシーちゃん。
人懐っこいジャーマン・シェパード
のシヴァくん。
彼らはこぞって呂布&ベスに圧をかけた。
どの犬の名前も、少しく
破壊神を想起させたのは
気のせいだろうか。
これに対して、ベスは外界を完全に遮断。
クレートの中で涅槃寂静に至り
ニルヴァーナの中でカート・コバーンに
抱かれながら溶けかけていた。
呂布はというと
迫りくる難敵に果敢に立ち向かっては
コロスケしているうちに
強敵と書いて
『トモ』と呼ぶ感じになっていた。
クロ子は大型犬に夢中になって
触りまくっていた。
「凄いぞこの子!うちのお父さんでも
素手じゃとても敵いっこないよ」
シヴァと戯れながら
相変わらず犬を戦闘力で測る
そのクロ子の異常な一貫性に
私はある種の
羨望すら抱きかけてきていた。
私はというと、薄手のワンピース一枚に
犬たちの突進を何度も受けて
心身ともに疲れ果てていた。
「呂布、此処が気に入ったか?
じゃあ一週間くらい
社会科見学してみるか?」
大型犬たちと馴染んですっかりはしゃいで
いる呂布を抱き上げて
クロ子が我が子に問いかけた。
呂布は舌を出して
笑っているように見えた。
ベスはというと、相変わらず
カート・コバーンの腕の中だ。
カート・コバーンより少しは
ハードコアになって欲しいものだ。
私はベスを教室に
二週間預けることにした。
流石に一ヶ月は可哀想だと思ったからだ。
帰ってきて粗相が
治っていなかったとしても
まあ、なんだかんだ私とベスなら
上手くやっていけるだろう。
私はケセラセラでマイペンライな
ナンクルナイサーマインドでそう断じた。
帰りに寄った饂飩屋で
クロ子が泣きだした。
「うう…良かれと思って入れたけど
…呂布と一週間も会えないなんて
…呂布は粗相なんてしないのに…」
「自分で決めた癖に何言ってんの。
呂布が楽しそうだったから
預けたんでしょ?
可愛い子には旅をさせる!
って息巻いてた癖に。
それに、ベスなんて二週間だよ?」
「そりゃベスは呂布と違って
自業自得っていうか信賞必罰
っていうかさぁ…」
「クロ子!
いつもいつも脇から見ているだけで!
ベスを弄んで!」
「あーごめんごめんって。
だからガンダムはやめて。
わかんないから」
クロ子の降参の言葉を聞いて
私は初めてクロ子の弱点を握ったことに
少しだけ得意になった。
そして一瞬後
そんな恥ずかしい己が慚愧に耐えず
目の前の饂飩の出汁の中に
頭を突っ込んだ。
そのまま溺れてしまいたかった。
何事かと店中の視線を独り占めした私は
その後、クロ子に引っ張られ店を後にし
路地裏でしこたま怒られた。
本音を言うと、二週間
ベスに会えない寂しさを
饂飩出汁の中で紛らわせたかった。
その気持ちが一番大きかった。
帰宅。ベスのいないケージ。
ほのかに香るうんちの匂い。
ベスのために買った玩具が
部屋中にベスの気配を
残して散乱している。
二週間後、ベスはどんな顔をして
帰ってくるだろうか?
きっと私は、躾なんかどうでもいいくらい
甘やかしてしまうだろう。
でも、今、ベスがいない。
でも、ベスだって向こうで頑張ってる。
私も切り替えなければ。
夜。いつものように夕飯の準備をする。
しかし作ってテーブルに乗せたのは
ベスのご飯だった。
いつもの癖で、作ってしまった。
ベスは今
どんなご飯を食べているのだろうか?
食糞してなけりゃいいけども。
そう思いながら
私はベスのご飯を自然と口に運んでいた。
三日間、お腹を壊した。
🏮 燈 🏮
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