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Blog@arabian
美しき虚構・離やがて目を覚ました私は 黒潮から打ち上げられて 命からがら助かった脳髄で考えた。 人間の脳は現実と妄想の区別が付くほど 上等ではないという ともすれば妄想が現実を上回ることは これ儘あることである。 兎角、私にとっては 現実の記憶より拵えた記憶の方が 解像度が高く精緻なのである。 これは実体験からも言えることだが 実際に旅行に行って感じることは雑多でも 後から文献でその地のことを調べると 何故か巡った遺跡の傷の痕跡や土の色 木々の梢の感触までがありありと 実体験然として五感に溢れてくるのである。 思うに、人は現実に直面している時は 往々にして色々といっぱいいっぱいである。 故に目先の情報処理に追われて 全体的なことは実はあまり覚えていない。 更に人は精神安定のために記憶を改竄し 美化したり劣化させたりする。 つまり記憶というのは実体験という 喉元を過ぎれば直ちに拵えもの以下の 「記憶」という非常に精度の低い情報に 成り下がってしまう可能性が高いと言える。 記憶というのは自己の精神防衛のためにも 直後から変容を来す場合が多い。 知らず知らずのうちに人はそうしてしまう。 これは仕方のないことで 過去を自己都合で作り替えるというのは 人の延命術。 生命維持の本能でもあるのだから 止めようがない。 記憶を情報として宛にし過ぎると ろくなことにならないのも頷ける。 であるならば 意図的に拵えた妄想 というのはどうであろうか? これは記憶に非ず。 まごう事なき拵えものである。 しかしながら 私にとってはこの人の手(いや頭か) による作物の方が 記憶より遥かに上にくる。 妄想が現実に劣るかといえば 全くそうは思わない。 例えば、スターウォーズや ハリーポッターの役者人などは あれが現実でないからといって 演技のレベルが下がっているだろうか? いや、彼らは既に妄想による追体験を 現実より高いレベルで為している。 故に彼らの芝居は猿芝居にあらず。 彼らは確かに魔法使いであり フォースの担い手なのである。 ドラゴンと戦うとなれば 実際以上にドラゴンと戦うであろうし あくまでそこに 生身の人間としてあり続ける。 そしてそれこそが 人間の創造力の源泉だとも思う。 私は妄想を愛する。 人はそうやって詩歌を、小説を、漫画を アニメを、演劇を、映画を エンターテイメントを発展させ 文化文明を育んできた。 宗教や哲学だってその範疇である。 妄想が創造を生み 人々は教養を耕すことで未来への糧を紡ぐ。 思えば物書きで言うところの 文豪とされる人のほとんども国外 殊によっては 旅行にすらほとんど出かけていない。 漱石先生など 英国に留学しておきながら 自分の英語力がまるで通じなかったことで 引きこもりになり あんまり何もしないもんだから 政府に帰国を命じられ 帰ってきた時には精神薄弱状態に陥って 長い事これに苦しめられた。 しかしながら 高浜虚子に薦められて書いた処女作 「吾輩は猫である」において 明治の代にありながら見事なまでに 令和現代までの社会的病理の 変遷を言い当てている。 これも教養に裏打ちされた 想像力の為せる業である。 私も空白の中に 自分の地図を書き込んで行くように 世の中を旅していきたいものだ。 その際は必ずしも この足を使って駆け回る必要はない。 ただ紙とペンがあればいい。 あとは地図帳でも眺めながら 夢幻に思いを馳せるのだ。 何たる安価な世界旅行であろう。 勿論、外に出て その心持ちを実践しながら旅をするのが 最も素敵なのであろうが やはりそれとこれとは中々に 両立しないように思えてならない。 想像と現実は交わらないからこそ 面白いのではないか。 そんなことを思いながら 私は今日も空白のピースに 幸せを書きなぐる。 もっともっと空白の方へ描いて行って 最終的に空白を描き 空白の中で大の字になることを 密かに夢見ながら。 🍎アカリ🍎 X 𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁 ※𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦開設したので フォローお願いします✨ ※公式LINEが凍結してしまったので 再登録お願いします🙇♀️ブログ一覧
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美しき虚構・序――実体験は雑音で 私の脳はむしろ拵え物にこそ忠誠を誓う。 友人がシンガポールから帰って来たので 土産話を聞きに行った。 特にこの友人 既に40ヶ国以上を踏破しているという。 大企業に勤めていて よくそんな暇があるものだ。 何やらキナ臭い香りがしないでもないが それは友情というヒビ割れしやすい 厚化粧の下に隠しておきましょう。 ともあれ そんなに世界を見聞きしているのだから 友人の感性はさぞ鋭敏に 研ぎ澄まされているのだろう。 私は当然の如く期待した。 壮大な冒険譚に胸を膨らませた。 ところがこの友人 感性が死んでいるとしか思えない。 突けども穿れども 「面白かった」「綺麗だった」 程度の感想しか出てこないのだ。 自慢話も出てこないとは、なんたる怠惰か。 こっちは垂涎ものの雅な旅行話に 現を抜かして羨ましいを連呼する 準備万端だったというのに。 しかもこの友人 「旅行に行くならその国の歴史・風土を 仕入れていった方がより一層に 時代を味わえること必定だからそうすべし」 という私のアドバイスをシカトして 無知蒙昧のまま弾丸で行って 何の理解も深めぬまま土産だけ 買って帰ってくるのである。 そんなだからして当然 土産物に関しての蘊蓄もろくに 垂れることができない体たらく。 別に息抜きの旅行なのだから 無念無想にて出国帰国しようと 勿論それは自由である。 なんならその弾丸旅行を続けているうちに 格闘家が日々の鍛錬にて自然に 反射的な動きが体に染み込んでいくが如く 彼らもいつしか 無想転生に目覚めるやも知れない。 などと希望的観測を抱いてみたが 格闘家は確固たる目的と自己研鑽のため 艱難辛苦のひたすらな反復の上で これを習得するのであり 休暇を使って目的もなく 放蕩している旅行者と 一意専心している求道者を 同列に語るのは流石に礼を失している。 それに、旅行を修行にしてしまっては バックパッカーがみんな悟って涅槃に入り 二度と浮世に戻ってこなくなってしまう。 更には悟りが大安売りされるようになり 涅槃が溢れて浮世と常世が繋がって 巷に百鬼夜行が横行してしまいかねない。 あと、いくら旅行は個人の自由だとは言え 例えばかつて我が日本軍が 日中戦争の最中に真珠湾攻撃のための 援蔣ルート(ビルマルート)を確保するため イギリスからの独立を目指す ミャンマー(かつてのビルマ)の 青年将校・アウンサン将軍らを誑かして 騙し打ちにしたことなど それくらいのことは知っておくべき ではないだろうか?それも知らずに 「日本とミャンマーって仲いいよね♪」 なんてミャンマーの国内で 嘯いて回ったなら、それは日本人として 恥ずかしいことだと私は思う。 仏教国の懐の広さで以てミャンマーが 寛大に迎えてくれるからといって 日本は未だ一度も 彼らに謝罪していないのだから。 許してもらうことと反省することは 別問題である。 それは我々日本人が 旅行に来たアメリカ人に 「原爆のおかげで 戦争が終わってよかったよね♪」 と言われるのに種を同じくする ようなことになり兼ねない。 無知な言動とは時に戦争の引き金に なり得るような言葉の弾丸を 孕んでいるものである。 人は生まれながらに無知。 故に生まれながらに 罪を背負っているのである。 であるからこそ福沢諭吉先生が 仰っているように学問をし 教養これを高めることが 国際社会に於いても重要なのではないかと 私は決して外国に行くわけでもないのに 日々お布団の中で愚考するのである。 🍎アカリ🍎 X 𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁 ※𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦開設したので フォローお願いします✨ ※公式LINEが凍結してしまったので 再登録お願いします🙇♀️ブログ一覧
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