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Blog@arabian鍵の放浪癖私はたびたび家に帰れなくなる。 私自身ではない。鍵が、である。 この手癖の悪い小さな金属の束は、 しばしば私の懐から姿を消し、 自由気ままに放浪の旅に出る。 つい先日も、 深夜、帰宅した瞬間に気がついた。 ない。 あの馬鹿がまた家出をした。 オートロックの前で私はひとり、 身動きの取れぬ囚人と化し、 ついにはドアを睨みつけたまま 夜が明けるのではないかとすら思った。 だが、こんなことは 今に始まったことではない。 私は昔から、鍵に見捨てられ続けてきた。 しかし、かつてはもう少し、 家というものが優しかった。 実家は古い家だった。 鍵などなくても、 工夫次第でどうにでもなる家だった。 学校から帰った私は、 そこで初めて鍵がないことに気づく。 ああ、またやってしまった。 だが、今日に限っては困る。 友達と遊ぶ約束があるのだ。 時間がない。 しかし、私はすぐに思い至った。 方法ならある。 私は、何度もそれを試し、 そして成功していたのだ。 私は家の裏へと回った。 そこにはビジネスビルの駐車場があり、 私の家とは、わずか四尺ほどの金網で 隔てられているだけだった。 私はその金網に張り付き、 一瞬で登りきると、屋根へ飛び乗った。 その瞬間、乾いた音が響いた。 瓦が、一枚、砕けたのだ。 気難しい陶芸家が、 自らの作品を叩き割るかのような音だった。 私は瞬時に罪悪感に襲われる。 だが、幸いにも誰にも見られてはいない。 ならば、これは犯罪ではない。 人に気づかれぬかぎり、 それは罪ではないのだ。 私は屋根の上で四つ足になった。 忍者だ、いや、スパイダーマンだ。 私は蜘蛛男よろしく這いながら 家の側面へと進んでいく。 そして屋根裏部屋の格子戸の下に、 お風呂場の小窓を見つけた。 幸い、開いている。 私はゆっくりと格子を掴み、体を沈め、 慎重に浴室へと滑り込んだ。 そして、ついに帰還を果たした。 夕食時、母が唐突に言った。 「……あんた、 今日、屋根の上で何してたの?」 「え?」 「お隣の〇〇さんが、 あんたが屋根で遊んでたって」 完全に油断していた。 私は確かに、 誰にも見られていないと思っていた。 しかし、ご近所の監視の目を甘く見ていた。 彼らは静かに、完璧に気配を消し、 すべてを見ているのだ。忍者が如く。 私は弁解を試みた。 「SASUKEに出るための練習だったんだ!」 だが、母はそれを取り合わず、 私は深夜まで 反省文を書かされる羽目となった。 あれからずいぶんと年月が経った。 SASUKEを見るたびに、私は思い出す。 あの日、私が越えられなかった 反り立つ壁のことを。 あの壁はもう無くなってしまったことを。 そして今も、 私の目の前には相変わらず壁がある。 今度こそ、 私は向こう側へ行かねばならない。 壁が消える前に。 鍵の放浪癖が抜ける前に。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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Blog@arabianイワシ帝国の逆襲道が混んでいてイワシになった。 駅を出た瞬間、私はもうすでに 通勤ラッシュに呑み込まれていた。 サラリーマンたちがひしめき合う その大群に、私の身も心も すっかり圧倒されて、 ただただ流されるしかなかった。 力場、それもまるで重力のように、 私をそのまま動かしていく。 私が向かうべき目的地への階段は、 目の隅でひっそりと 私を待っているというのに、 私はその場所に辿り着ける気配もなかった。 今日という日に交わした友達との約束が 景色と共に遠のいていく。 今、私はどこへ向かっているのか。 このまま、勤めてもいない会社まで 流刑に処されるのだろうか? 私が行動しようとする度、 周りの流れがますます強くなる。 大勢に流されて、 私の僅かな努力は虚しくも消えていく。 塩の行進にも参加しない、 無為な無抵抗主義者に成り下がり、 ただ棒のように、 動けず無力感に打ちひしがれる自分の姿。 これでは、まるで荒川の河川敷に 身を投げたどざえもんのようではないか。 いや、もっと悲劇的なものがある。 無常観に薄れゆく意識の中で ふと浮かんだのは、イワシであった。 昔、水族館で見たイワシの大群が、 私の心に鮮明に蘇った。 私はその美しい力場に立ち尽くしていた。 最初は一匹が泳ぎ出したのであろうか、 続いて二匹、三匹、 気づけばそれは大きな渦となって、 一個の巨大な生命体、 美しい無限の回転と化していった。 こちらとあちらを隔てている 分厚いアクリルガラスが、 不可思議に視野を歪め、 その回転を更に幻想的に彩った。 「スイミー」。 幼少の頃、 小学校の教科書に載っていた物語が、 まるで生きているかのように、 私の目の前で再現されているようだった。 力強く、絶妙に連動するその群れの中に、 私の心は捕らわれた。 しかし、 流れに逆らおうとするものがあった。 イワシの一匹が、必死にその渦に抗い、 方向を逆転させている。 その姿は、まるで死にものぐるいで 戦っているように見えた。 だが、イワシの大群は、 どんな小さな反逆も許しはしない。 無情にもその流れは容赦なく続き、 どんなに必死に足掻こうとも、 その力に抗うことなどできなかった。 ついにはそのイワシは力尽き、 私はその行く末を追って彼方を仰ぎ見る。 反逆者たちの残骸は、 遥か天上の水面にプカプカ浮かび、 水槽へ差し込む光を浴びて煌めきながら、 静かに涅槃を飾っていた。 私の目にはそれがとても哀しく映えた。 そう、今、私が直面している この人の流れも、同じようなものだ。 一度集団の力に押し流されてしまうと、 逆らう勇気が蛮勇とされ、 その努力は水泡に帰す。 しかし、どうしても心の奥底で、 私は信じたくなかった。 人間はそんなに無力ではないはずだ。 歴史をひも解いてみれば、 確かに力場に抗い、 英雄と称される者たちがいた。 ナポレオンやアレクサンドロス三世、 彼らもまたその流れに逆らった者たちだ。 そして別段、斯様な偉人の例に頼らずとも、 力場を物ともせず、 己が信念で世界を貫き、 屈服させ得るものが、人間にはある。 ならば、 イワシにも英雄が現れるのではないか。 いつの日か、イワシ大王が現れ、 この渦を支配し、新たな王国を築き、 果てには人間に 反旗を翻す日が来るのではないか。 こうしてはいられない。 私はこんなところで、 知らぬ会社への流刑に 甘んじている場合ではないのだ。 私は白昼夢から覚めた。 人波の中で溺れかけていた 自分を奮い立たせ、 逆らう決意を固めた。 私も流れに従うのではなく、 力強く逆転する。 ここから、 アカリ帝国建国第一歩を踏み出すのだ。 数多のサラリーマンたちと ぶつかりながらも、 私の心は熱く燃えていた。 そして、約束の時間に大幅に遅刻した。 不機嫌そうな友達の機嫌を取りながら、 私はやけに擦り減った ヒールの踵を気にしていた。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
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