顔のないマリア像
長いこと読書から離れていた反動か、
一度本を読み出すと、
すっかり活字中毒になってしまった。
ならば、と早速
行きつけの古本屋を開拓することにした。
近場の商店街を少し離れたところに、
いい感じの古書店があった。
店に入ると、初老の店主が
椅子に腰かけたまま、
本から目を離しもしない。
「いらっしゃいませ」も
聞こえない、言葉のない
文字の世界へ迷い込んだかのような、
独特の静けさ。
狭い店内に充満する、
古紙やインクの入り混じった、
リラックスと尿意を同時に促すような匂い。
「こういうのでいいんだよ、こういうので。」
私の頭の中で、
リトル井之頭五郎がそう囁く。
そして、割り箸を下手に割って
「あちゃあ」と言いながら
小さくなっていった。
棚の目立たないところに、
太宰治全集が置いてあるのを見つけた。
全10巻のうち、9巻だけが抜けていた。
他の巻に収録されている作品を逆算すると、
この9巻には
「斜陽」と「人間失格」が入っていたはずだ。
太宰治の代表作といって差支えない2作が、
エアポケットのように抜けている。
果たしてこれを購入した人は
太宰治初心者であろうか。
それだから入門編としてとりあえず
これを購入したのであろうか。
だとすれば太宰治愛好家として
私はこれを布教の切っ掛けとして
寿ぐべきなのだろう。
しかし代表作の抜けた全集とは歪なもので、
顔のないマリア像のようなものである。
これでは参拝するものもあるまい。
偶像ではなく本質を崇拝しているものは、
参拝など省略して
聖書を買うのかもしれないが。
私は少しガッカリして、
その場を立ち去った。
なぜなら、先程から自分の事をさも
太宰治上級者の如く語っている私もまた、
実は、斜陽しか読んだことのない、
太宰治初心者であるからだ。
全集を見つけた瞬間の私の胸には、
これを期に、太宰治作品に没頭し
入門から大司教まで早馬で
駆け抜けてやろうという魂胆があったのだ。
とどのつまりが、
門戸を叩いたら追い返された体なのである。
顔のないマリア像は、私にも不要だった。
むしろ私は純文学に
微笑みかけて欲しかったのだ。
***
後日、再度その古書店に行くと、
シャッターが閉まっていた。
休みではない。潰れていた。
あの店内の雰囲気そのままに、
静けさを保ったまま消えてしまった。
ただ匂いだけが、
湿ったアスファルトにヤニが混じったような
何とも居心地の悪いような、
だけど少しそこに留まっていたいような
そんな寂しいものに変わっていた。
もし、あの時、
私が顔のないマリア像を買っていたら、
この店は消えなかっただろうか?
代表作を欠いた全集は、買わない。
帯を抜いては作品と
対峙しない者ばかりいる。
それだから、その苦悩があるから、
作家は短命なのではないか?
刹那の間に、私の目の前で、
永遠に門戸を閉ざしてしまった、
この古書店のように。
とりとめのない思考を巡らせながら、
私は帰り道、
大型書店で 夏目漱石の
「道草」を買った。
🍎アカリ🍎
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