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金瓶梅に登楼するのは、三回目となりました。先ず今回感心したのは、待合室のソファです。ようやく店にやってきて、ソファに腰を降ろすと、一瞬ふわりと身体全体が受け止められた感触が生じ、それから絶妙な間合いをおいて、更に臀部を包み込むこむように、グッと沈み込む感覚にとらわれます。この感覚は、身体中を巡って、比類ない癒しとなりました。待合室のひとときをも、極上な高級感に浸っていただきたいという店のご配慮を感じることができます。
さて、今回も透明感のある美女「水鈴ちゃん」を指名しました。彼女はいつものように暖かな笑顔でお迎えしてくれました。三回目になります。前回に比べ、前髪を切ったという彼女。それによる印象の変化もありますが、初回にパネル写真とブログの写真のイメージをもって彼女と初対面したときに対し、その容姿がずいぶん変わったように知覚されました。
唐突ですが、フランスの哲学者サルトルは、他者の身体を対象身体と主観身体に分け、私という主体を対自身体と対他身体に分けることで、対面する相手が思っていると意識される私のイメージと、まさに相手が思っている主観的な私のイメージを、互いに影響し合い、変容し合うものとして捉えています。つまり、恋する二人が見つめ合って、互いに顔を赤らめるようなとき、これらの身体が目まぐるしく動いて交錯している状態ということが出来ましょう。
また、ドイツの哲学者ニーチェは、文章のスタイルと談話のスタイルを明確に区別し、談話では身振り、アクセント、声調、目つきを知覚することができると言って、対面で話すことの重要性に言及しています。
つまり三回目ともなると主観身体と私の対他身体は、じっくりと認識し合うことで、安定したものになり、彼女との会話もはずむようになり、さらにより豊穣なものになっていくということです。「知覚ほど誤謬に満ちたものはない。」と言ったのはフランスの哲学者メルロオ・ポンティですが、いままで述べたようにお互いの意識ー身体の有様によって、知覚などは自在に変貌するものなのではないでしょうか。容姿が変わったように見えたのは、そうして精神的なものが身体的なものに反映したからに相違ありません。水鈴ちゃんはかほどに奥が深いとも言えます。
私は所謂「新○キラー」というこの業界の存在を厳しく非難するものですが、それは彼らが触覚(性的)のみを求めて、様々なキャストを渉猟しているだけだからです。プリミティブで愚昧な所業です。私は少なくとも3~4回は同じキャストに入って、相手のことを深く知ろうと試みようとしています。
さてさてようやく水鈴ちゃんですが、彼女は身振りは溌剌として美しく、アクセントも明るくて小気味よく、声調は流麗眼はもう深く透明な泉のような色で、多くの感情を語り、話しているだけで時間を忘れてしまいます。言葉のチョイスも適格です。
それらが、彼女の素敵な総体を創り上げているのです。
きょうの後半はマ○トを経験させていただきました。初回の登楼のときに一回サービスを受けましたが、今回は多少時間的な余裕があったようでした。うつ伏せのときは、水鈴ちゃんの小柄なローシ○ンまみれの身体が、私の背中や臀部や足の間からするすると滑り込んでくるのが凄く気持ちよくて、仰向けになってからは、そんな様子や水鈴ちゃんが、眼を潤ませながら動くさまを眺めていたら、自分も自ずといやらしい気分になってしまいました。そしてそのままクライマックスへ。
最後はいつものように思いっきり手を振りながら、お見送りしてくれ、とても幸福な気持ちになりました。
身振り、アクセント、声調、目つき