君の話はひとつも覚えていない
――でもあの男の手の動きなら
たぶん一生忘れない。
あれは、まさしく日常の罠だった。
私はその日、タクシーの後部座席で
友人としゃべくり倒していた。
テーマは恋愛だったか
唐揚げの衣の話だったか
記憶が曖昧なのは、きっと途中で
世界が思いがけず華やいだからである。
交差点でタクシーが止まったとき
私はふと、友人の肩越しに何か異質な
いや、魅惑的な気配を感じたのだ。
そこにいた。
一台の車。ぱっと見で
「これはヤバいやつだ」と脳が告げてくる。
ボディにピンク髪の少女。
笑っている。いや、微笑んでいる。
いや、たぶん、私の人生を超越していた。
いわゆる痛車である。
言葉の響きがすでに痛々しいのに
現物はさらに上をいっていた。
これはもはや車というより、動く神殿。
友人は気づいていない。
そりゃそうだ
夢中で自分の話をしていたのだから。
だが私はもう
彼女の声が耳に入ってこない。
意識の焦点が、自動的に痛車へ合っていた。
そして、その主がいた。
踊っていた。狂っていた。
生命の限界に挑んでいた。
運転席で、彼は口を縦にめいっぱい開け
片手でハンドルを握りつつ
もう片手を顔の横でブンブン
いや、シャキーンシャキーンと振っていた。
音楽に合わせて。もちろん音は聞こえない。
ガラス越しの、まさに無音の舞踏だった。
私は笑いを堪えた。
いや、むしろ笑いそうになったのは
己の惨めさの方だ。
こんなにも全力で何かをしている人間が
隣の車にいたというのに
私はただ、退屈な話に相槌を打ち
上手に「聞いてるふり」をしていたのだ。
「――でさ、ひどくない?」
友人は言った。
話の山場だったのかもしれない。
でもごめん、本当にごめん。
私は聞いていなかった。
私は、痛車の主とともに
心の中で激しく踊っていた。
信号が青に変わると
彼の車はまるで戦場へ向かう戦士のように
猛スピードで走り去っていった。
その瞬間、私は悟った。
彼はきっと、今日を全力で生きている。
私はと言えば、どうだろう。
少なくとも、ほんの一瞬
「生きているってこういうことかもしれない」
と思えたのだから、悪くはない。
友人の話は一ミリも頭に入ってこなかったが
交差点の向こうで見た踊る男の姿は
今も私の網膜に焼き付いている。
あんな風に踊れるだろうか、私は。
いや、踊れない。
でも、ちょっとだけ、羨ましかったのだ。
🍎アカリ🍎
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