「お願い、行かないで」 「まだお別れなんてしたくないよ」その言葉は喉まで出かかっているのに、声にはならなかった。ただ震える心臓の鼓動が、実家の猫ちゃんの小さな体温に重なる。仏壇の前のお座布団。半年前に父が旅立ってから、そこが猫ちゃんの定位置になった。まるで父の傍に寄り添うように、丸くなって静かに目を閉じている。   その目はかすかに潤んで半分眠っているようで、でも何かを探しているようでもあった。母も同じように気落ちしていた。耳はぴくりとも動かず、鳴き声はほぼ出なくなっていた。   掠れた声を一度だけ絞り出したとき、か細くて消え入りそうで、涙が溢れた。   あんなにお利口さんで静かな子なのに、声すら失ってしまうなんて…。背骨が浮き出て、歩けば小さな足音がふらついて聞こえた。「もしもこのまま虹の橋を渡ってしまったら…」 そう思うたびに、胸を掴まれるように痛かった。けれど、点滴を打ってもらってから少しずつ変わった。最初に聞いた元気な鳴き声――掠れていない、ちゃんとした声――その声に思わず泣き笑いした。「〇〇ちゃん！声が出たね！」   小さな体から溢れるその声は、まるで「まだ生きたいよ」と言っているようだった。     ご飯をもりもり食べる姿も戻ってきた。 カリカリとフードを噛む音が、こんなにも嬉しい音に聞こえるなんて。水を飲む音も、動くたびに鳴る鈴の音も、全部が愛しくてたまらない。一歩一歩、 床を踏みしめる音がきびきびと響く。あのふらつきはどこかへ消えて、再び「生きる」リズムを奏でてくれている。「まだ行かないで」 「12月に20歳のお誕生日を一緒に迎えようね」撫でるたびに喉をゴロゴロと鳴らして、安心したように目を細めるその顔。その小さな温もりを抱きしめながら、心の中で何度も祈る。今度こそ後悔したくない。だから私は毎週帰省して実家の猫ちゃんに点滴を打ってもらい、小さな変化を絶対に見落とさない。     「行かないで」     そう願いながら、今日もその澄んだ声を耳に焼き付けている。   アラビアンナイト🧞‍♂️シャロン