-
次の記事
-
Blog@arabian非常ベルが鳴るまえに――私は、ただ音だけを聞いていた。 帰りの電車のホームで、私は一人、 妙に長い影を引きずって歩いていた。 最寄り駅の、 その名前すら詩情を感じさせない、 あまりに凡庸な駅のホームを、 鞄を肩に食い込ませ、 やや猫背気味に歩いていたのだが、 どうも様子がおかしい。 先ほど私が降り立ったばかりの 電車が、発車しない。 ただ停まったまま、 何やら一つのドアに人々が群れて、 ざわめいている。 こういうとき、 私は大抵知らぬ顔をして通り過ぎるのだが、 その日は、どうも背中に熱い視線を感じて、 仕方なく、覗き込むように その人だかりに近づいてしまった。 すると、ホームと電車の間に、 婦人が、いや、もっと正確に言えば 「おば様」が、片脚を落とし、 まるでアリ地獄の獲物のように、 ずっぽりと、はまり込んでいた。 これは、もう、ただ事ではない。 おば様の身体が半ばホームに、 半ば電車に挟まれたまま、 あられもない姿でよじれ、 しかしその表情には、 どこか悟りきったような、 仏のような穏やかささえ漂っていた。 その鞄の中身が散乱しており、 今にも絡まり合って 昇天しそうな有線イヤホンが、 知恵の輪のように絡まり、 いや、あれはまさしく ピタゴラスイッチの様相を呈していた。 イヤホンの一本が、 車体の隙間に絡まって、外れぬ。 おば様の足とイヤホンとカバンと電車が、 ひとつの生命体のように 合体してしまったかのようである。 助けようとする人々は既に集まり、 男も女も、 あるいは会社員風の人々までもが、 手を差し伸べている。 「電車が発車しようとしているぞ!」 「止めろ、止めろ、電車止めろ!」 誰かが叫ぶ。 私は思った。 今こそ、私の出番ではないか。 助け起こす腕力など、私にはない。 だが、緊急停止ボタン、あれだ。 あれを押せばいい。英雄になれる。 社会に貢献したと、 誰かが心のなかで 拍手してくれるかもしれない。 私は走った。いや、走ったつもりだった。 ホームの柱をぐるりと回り、 目を皿にして、非常停止ボタンを探した。 だが、どこにも、ない。 普段見ようともしなかったツケが、 いま襲いかかってきた。 焦燥。汗。喉が乾く。 目の端に、 電車のドアが閉まりかけているのが見えた。 ああ、誰か、誰か、早く! その瞬間、私の視界を 軽やかに駆け抜けた人影があった。 小柄な男だった。 痩せていて、どこか身軽で、 現代の忍者のようだった。 彼は迷うことなく非常ベルのもとへ走り、 そして、躊躇なく、それを押した。 ベルの音が高らかに響いた刹那、 おば様の足が、引き上がった。 人々がどっと安堵の息をついた。 すぐに別の女性が、落ちた婦人に駆け寄り、 何やら優しく話しかけている。 駅員が駆けつけ、事態を収拾しはじめる。 私は、何もしていない。 何もできなかった。 ただ、見ていただけだ。 けれど、見ていただけの私は、 駅員に事の次第をつたえ、 妙に感謝されてしまった。 何だか間違っている気がした。 忍者の姿はとっくになかった。 彼は非常ベルを押したその足のまま、 風のように走り去り、 煙のように姿を消したのだ。 電車が再び動き出す頃、 私はひとり家路についた。 「慈愛のある日本」を、 ほんの少しだけ、誇らしく思った。 それと同時に、自分の無力と臆病と、 頭の中で考えてばかりいて、 行動の伴わぬ性分に、赤面した。 電車の音が、やけに大きく胸に響いていた。 私はポケットの中のイヤホンを、 ただ握りしめていた。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
-
-
前の記事
-
Blog@arabianタイタンの怒り吾輩の愛車はママチャリである。 名前はまだない。 と、周りの知人には誤魔化しているものの、 実は陰ながら命名済みなのである。 恐れ多くもかの大英雄、 アレキサンドロス大王の愛馬の名を 勝手に拝借しているのだ。 これは知己に紹介するにも、 ともすれば身の程知らずの汚名を被せられ、 更にもしその相手が 無類のアレキサンダー信者であったならば、 最悪、絶縁も免れぬであろう。 斯様な憶測からの リスクマネジメントとして、 この真名は我が心中に留め、 周囲には秘密にしている。 しかしここにおいて 浮世の煩わしき人々への 小心な心遣いなど無用の長物。 ここは思い切ってこの場に甘え、 威風堂々とその名を ひけらかすが正解であろう。 吾輩の愛車はママチャリである。 名を「ブケファラス」という。 そして今、ブケファラスは 世俗の泥に塗れて汚れてしまっている。 私がコーヒーをぶちまけたのだ。 移動中にいつも片手に持っている スタバのベンティを、 より安全に運搬すべく、 ブケファラスに コーヒーホルダーを据え付けた。 それで充分に事足りたと思っていた。 間違っていた。 カップには容器内の気圧を一定に保つための 空気穴が無数に空いているのだ。 そこからスパルタクスの反乱に 便乗する奴隷たちが我先に脱出せんと 乱暴に格子を突き破るが如く、 無数の細かい飛沫が上がる。 それは段々糸のように長く、 波のようにうねり、 ついにはカップ本体と蓋の 調和を保つ張力を破壊し、 接合部をこじ開けて、 反乱軍の本体が一気にカップから そのまま外へ溢れ出す。 爆ぜるように空へ飛び出した剣闘士たちは、 コンクリートの土を 背景に滲む景色の焦点に 茶褐色を添えて全体をセピア色に彩る。 そして色彩が元の気配を取り戻したとき、 景色はまた滲む。 今度は焦点云々の話ではない。 我が眼に累々と滲む 無常観によって全体が滲んでいるのだ。 刹那に散ったセピアは悉く ブケファラスに襲い掛かった。 ブケファラスの鮮やかな薄緑の身体は、 面を脂に任せて役目を終えんとする紅葉の、 後を枯葉に託す厭世的な色に汚された。 明日に繋ぐ望みすら抱かせぬ 暗い朝焼けのようでもある。 私の心持ちは その吉凶明らかな暗い光線に焼かれて、 漕ぎだす活力を失って その場にただ茫然と佇んでいた。 私が常日頃よりモバイルオーダーから 店員の笑顔に微笑み、 カップを彩る朝の挨拶に心を温められ、 さりとて、その後を共に駆ける ブケファラスへの返礼がこれとは、 なんという理不尽であろう。 今の私には、朝を満足させる苦みに 身を沈める資格などあるまい。 これではまるで、 私こそがスパルタクスではないか。 いつの間にブケファラスが 王政の頂点にあって 私を奴隷徴用していたのかは 定かではないが、 ともかくも私はブケファラスに 反目を翻す意志なきを示し、 我が寵臣との信頼回復に努め、 改めて王政復古の大号令を発さねばならぬ。 かくして私は、タンブラーを購入した。 手持ちの大袈裟な 水筒などを用いる手もあったが、 斯様な俗物をブケファラスに 間に合わせで献上して、 我が愛馬の機嫌を損じるは 元の木阿弥である。 実用的で、簡素な作りの逸品。 これは私にとっても 初めてのタンブラーであった。 これを用いること即ち、 モバイルオーダーの習慣から 外れることとなる。 いつもの朝を目覚ます店員の笑顔、 親切心で描かれた落書きが胸中を過り、 少し切ない。 しかし、我が朋友を守ることこそが、 彼らの親切心に報いる事だ。 あの笑顔や落書きは、私の幸せのために 演出されていたものなのだ。 そうでなければただのイジメだ。 朝っぱらから接客で嘲笑され、 商品に落書きされることに、 人の営みの幸せなどあるはずもない。 過ぎたる詮索は無粋である。 そうでなくとも、 人生は素敵な勘違いで 充分に合格なのである。 一通りの屁理屈を経て、 充実した気持ちを手に入れた私は 「我が竹馬の友ブケファラスを、 これより未来永劫、 浮世の汚泥から守り切ってみせる!」 そう得意になっていた。 これにて店員の気持ちも、 想いを込めた落書きも、 大神の意に沿って 穏やかに高天原へと召されるであろう。 しかし、私は大地の怒りを侮っていた。 卑しくも人の身にあって、 地に足もつけず天下を 往来しようとする人の傲慢を、 タイタンは許さなかった。 如何な趣向を凝らそうとも、 ママチャリの揺れは尋常に 収まることを知らない。 往けば必ず零れる。 タンブラーだろうと鉄鋼戦車だろうと、 往く者は等しく その対価を払わねばならぬのだ。 カップより、少しくマシになって、 ポタホタと、 それは私の眼に顕れる悔恨の代わりに、 滴り続ける。 汚れる相棒。志半ばに果てた想い。 このまま、渋色の濃い枯葉となって、 梢を離れ、風に吹かれて 自由に飛び廻れたらいいのに。 様々に寂莫たる想いを お掃除シートに託しながら、 私は今日もブケファラスを ピカピカに磨き上げる。 🍎アカリ🍎 ꫛꫀꪝ✧‧˚X 公式LINE ✉️arabi_akari_otoiawase@outlook.jp ご予約詳細は🈁ブログ一覧
-